靖国・YASUKUNI (続き)。

靖国神社は、異界である。
靖国神社の監修を受けた、所功編『新・ようこそ靖国神社へ』には、<靖国神社は、明治2(1869)年、明治天皇の「我が国のために尽した人々のみたまは、国自ら永久にお祀りすべきである」との聖旨により、ご創建されて以来、国家が手厚く管理して参りました。・・・靖国神社が一般の神社と大きく異なるところは、護国の英霊等をお祀りしていることと、246万余柱に及ぶ多くのご祭神をお祀りしていることでしょう>、とアッサリと記している。
明治天皇により創建されたのは、事実であるが、今、国家の管理下にはないし、それより何より、いわゆる靖国問題については、何ひとつ触れていない。帯に、「公式ガイドブックだヨ」、と靖国神社のメインキャラクターだという「ポッポちゃん」と一緒に刷っているような本なので、そうどうこうと言うことでもないが。
<靖国神社の起源は、幕末の動乱の中で勤皇の志士たちが営んだ同志追悼の招魂祭にある。・・・戊辰戦争における官軍側の戦死者を祀る公式の場となった>、(三土修平著『頭を冷やすための靖国論』、ちくま新書)。
だから、江戸の上野で戦った彰義隊や、会津の白虎隊や、新撰組の近藤勇、また、西郷隆盛なども、祀られてはいない。官軍と戦った幕府側であり、政府に反旗を翻した賊軍であるからだ。が、それは措く。
靖国神社は、単に、国に殉じた人たちを慰霊、追悼する場ではない。今、次第に覆い隠されようとしているが、それらの人たちを顕彰する、という意味合いも持っていたはずである。
その靖国神社が、A級戦犯を合祀した。1978年(昭和53年)、時の宮司・松平永芳によってなされた。いわゆる「靖国問題」は、ここから発する。
合祀問題、首相の参拝問題、外国との問題、それ以前に、戦争責任の問題、東京裁判の問題、さらに、遊就館の歴史認識、コンセプト(遊就館の展示や常時上映されている映画、すべてを否定するものではないが、その認識、やはり、おかしい、誤っている)、そして、A級戦犯分祀問題、新しい国家追悼施設の問題、などなど多くの問題が生じた。
決定的になったのは、2006年7月の、日経新聞による「富田メモ」のスクープ記事。元宮内庁長官の富田朝彦が書いた、A級戦犯合祀を知った時の、昭和天皇の怒りの言葉。昭和天皇の言葉、結論の所だけ記すと、「だから、私あれ以来参拝していない。それが私の心だ」、というものである。
保阪正康は、『昭和史の大河を往く 「靖国」という悩み』の中で、こう書いている。
<わたしはこの富田メモのなかで、容易に理解できたのは、天皇はA級戦犯合祀そのものに強い不快感をもっているだけでなく、「それが私の心だ」という発言には「怒り」の感情さえ読みとれることである>、と。そして、こうも書いている。
<昭和天皇はA級戦犯14人の合祀を不満として、靖国参拝を行わないと考えると、のこりの246万余の祭神に対しての慰霊をまったく別のところで行っているとも考えられる>、と。
これを読んで、初めて気がついた。こういう人、昭和天皇以外にも多いんじゃないかな、と。オレもそうなんじゃないか、と。
「靖国問題」を論じた書籍は多いが、日経が「富田メモ」の存在を報じた、2006年7月以前とそれ以後では、その論旨、異なってくる。もちろん、それ以前のものも、教えられるところは多いし、面白い。それ以前、近場のものでも、
赤澤史朗『靖国神社』、高橋哲哉『靖国問題』(石橋湛山が、敗戦後、靖国神社廃止論を唱えていたことを、この書で初めて知った)、稲垣久和『靖国神社「解放論」』、中野晃一+上智大学21世紀COEプログラム編『ヤスクニとむきあう』(村井吉敬、蝋山道雄などによる上智大学でのシンポジウムを基にしたもので、天皇の戦争責任、靖国の存在理由などに言及している)。
以後のものでは、元外務官僚の東郷和彦(A級戦犯、東郷茂徳の孫だ)の『歴史と外交 靖国・アジア・東京裁判』が、面白い。
戦時の外相、東郷茂徳も大した人だった、ということは、去年の8月のブログで書いたような気がするが、その孫の東郷和彦も、ワケあり外務省を辞めた人だが、なかなか魅力的な人だ。
前記の保阪正康の書も、日経の記事が出た後のものだが、そればかりでなく、保阪の論旨、解かり易くて明解。肯けることが多い。
靖国については、靖国問題ばかりじゃなく、その異界としての別の面白さもあるのだが、長くなったので、それは、またとする。