日本、朝鮮、満洲。

宮内庁書陵部が編纂した『昭和天皇実録』、平成2年(1990年)4月から16年間の計画で始められたが、完成予定は8年延び、平成26年(2014年)完成を見た。
出版は東京書籍が請負い、順次第十八巻までの膨大な実録が世に出た。
何年か前にも記したことがあるが、市の図書館から借りだしては、面白そうなところだけを拾い読みしている。
昭和20年(1945年)8月8日の『実録』には、外務大臣東郷茂徳から<新型爆弾の投下を転機として戦争終結を決すべき旨の奏上を受けられる。・・・>、とある。
この時期、以前にも何度か記したことがあるが、東郷茂徳という人は偉かった。いや、私ばかりではない。半藤一利はじめ何人もの昭和史の専門家も述べている。
ところで、8月8日の『実録』にはその後、かなりの行数をとって「李グウ公薨去」の記述がある。
李グウ(グウ、IMEパッドでも出てこない。金へんに禺)、李王朝の一族。第二総軍参謀として広島において作戦任務遂行中、新型爆弾により負傷、7日に薨去する。享年34。
『実録』記載の概略。
<宮内庁は本日正午、公の戦死を発表する。・・・、侍従小出英経を勅使として東京の李グウ公邸に差し遣わされる。なお、公の遺骸は本日広島を出発、空路にて朝鮮京城府の本邸に帰着する。九日、満洲国皇帝溥儀より弔電を寄せられ、十日答電を発せられる。十四日、同邸に勅使として・・・。十五日の葬送に際しては、勅使として・・・差し遣わし、また、天皇・皇后・皇太后より祭資を、天皇より白羽二重・神饌・榊を賜う。遺骸は、朝鮮京畿道・・・・・・>
ギリギリとなった8月8日でも、昭和天皇、満洲国皇帝、李氏朝鮮の王族、きちんと礼を尽くしていると言えば尽くしている。
朝鮮が日本に併合されたのは、1910年(明治43年)。1945年(昭和20年)に日本が戦争に負けるまでの35年間、朝鮮は日本の植民地、いや、日本の一部であった。
その日本が併合後の李氏朝鮮、李王朝の王族たちは、日本の皇族に準じた扱いを受けた。李王朝の一族である李グウも、「公」という敬称で呼ばれていたようだ。それ故、天皇の旧朝鮮の王族に対する接し方はきめ細かい。
そういうものなんだな。
畏れ多いことではあるが、昭和天皇というお方は、何と言うか分りやすいお人であった。好きなこと嫌いなこと、気に入ったこととそうでないことが、何となしに分かるんだ。『昭和天皇実録』を見ても、『昭和天皇独白録』を読んでもそう思う。
『実録』の昭和23年11月12日には、極東軍事裁判で判決が下された、との記述がある。A級戦犯7名には死刑判決が、との記述も。
東條英機以下の7名のA級戦犯の死刑は、12月23日に執行された。しかし、『実録』のこの日の記述に、東條英機たち7人の死刑執行のことは記されていない。
李グウの戦死についてはキチンとした弔意を示しているが、東條英機たちA級戦犯7人の刑死に関しては触れていない。東條英機たち7人のA級戦犯、みな昭和天皇を守った人たちである。
それなのに。
しつこくなるな。このこと以前にも記したことがある。ここらでやめておこう。
碌に飯も食わず、焼酎の水割りばかりを飲んでいるので、身体は干からびているのだが、戦争の8月になると身体がカッカカッカしてくる。
特に昭和天皇がらみ、原爆がらみとなると。
それはそうと、8月9日には満洲国皇帝溥儀から昭和天皇に対し、李グウ戦死に対する弔電が届いている。
この頃、溥儀も広島への新型爆弾投下のことを知っていたろうに。
満洲国、1932年から1945年の間のⅠ3年間存続した。が、満洲国を承認していたのは日本のみ。日本の傀儡国家である。
満洲国皇帝・愛新覚羅溥儀、1935年(昭和10年)、国賓として来日する。昭和天皇が東京駅ホームで出迎えた。昭和天皇が東京駅頭で国賓を迎えたことは、この時以外ないそうだ。
ラストエンペラー・溥儀、1946年、東京裁判の証人として東京に連れてこられ、証言する。「私は、日本の傀儡であった」、と。
まさにその通り。
私は、その日本の傀儡国家であった満洲で生まれた。後年、その旧満洲へも行った。日本の遺物が多く残っていた。
昭和20年前後に思いをいたす。日本、朝鮮、満洲、と。
とりとめなくなったな。