靖国の桜。

3日前、東博の「桜めぐり」へ行った後、靖国神社へも行った。
東博を出た後、少し休んでいたので、靖国神社へ着いたのは6時ごろ。九段下の地下鉄を上がると、空は薄暗くなりつつあり、境内には、すでにライトアップの灯がボウと灯っていた。
靖国神社の境内には、染井吉野を主に、約600本の桜木があるという。
靖国の桜も、満開である。

神門を入ってすぐの内苑の桜木。”東京に春を告げる「靖国の桜」”、という立て札がある。

その文面、こういうもの。

内苑の桜木の様子。灯に浮かぶ桜花、ぼってりとした感じである。

正面は、拝殿。お賽銭を入れ、拝礼する。

境内の右手、靖国会館の前に1本だけ立つ桜木。
ライトに浮かぶその花色、純白に見えた。この桜木のみ、その白さ、際だっていた。

そこから、神池庭園の方へ少し歩いた、到着殿の前の桜木。
この近辺には、だいぶ時代を経ているな、と思われるものや、幹が苔むしている桜木が多くある。
なお、到着殿は、本来、皇族や賓客を迎えるために造られた、素木建の建物である。しかし、天皇はじめ皇族の参拝が行われなくなった今、どのように使われているのであろうか。

内苑から見た神門。
その上には、やはり、ぼってりとした白く浮かぶ桜花がかかっていた。
靖国の夜桜、どこか、通常の夜桜と違う。おそらく、明かりが違うんだ。いわゆるライトアップとは、異なる。灯した明かり、ということだろう。だから、灯りに浮かぶ靖国の桜、ぼってりとした白、に見えるんだ。
なお、毎月改められる、社頭掲示板、今月は、岐阜県郡上八幡出身の、陸軍少尉・山川弘至命の、「私が死んだら」、という文であった。案外長い、詩のような文だ。
山川少尉、昭和20年8月11日、台湾屏東南飛行場にて戦死、28歳、と記されている。
その文章の一部を、引きうつしておく。
<私が死んだら 私は青いくさのなかにうづまり こけむしたちひさな石をかづき 青い大空のしづかなくものゆきかひを いつまでもだまってながめてゐやう。 それはかなしくもなくうれしくもなく 何となつかしいすまひであろう。・・・・・春がくればあかいうら青い芽がふき出して 私のあたまのうへの土をもたげ わたしのかづいてゐる石には 無数の紅の花びらがまふであろう。・・・・・>、とずっと続く。
28歳で、戦に散った、山川弘至命、”かなしくもなくうれしくもなく”、と言っている。また、この後を読むと、”日本の土”になり、この国土を眺めていたい、とも言っている。平らかな心である、と感じられる。そして、最後に、西行の、あの歌、「ねがはくは 花のもとにて 春死なん ・・・・・」、の歌を記している。
彼が、台湾の飛行場で死んだのは、昭和20年の8月11日である。敗戦の、わずか4日前である。
彼は、いったい、何時、この文を書いたのであろうか。
死の少し前、だとは思えない。もし、そうだとすれば、彼・山川少尉は、彼が望む翌年の春の死まで、まだ半年余も戦うつもりであったのだろうか。米軍に叩かれに叩かれていたであろう、あの状況の中で。
そうではない。おそらく、彼は、出征時にこの文章を認め、誰かに託していたに違いない。私には、そう思える。
戦に往くからには、日本の土になる覚悟だ、ただ、でき得れば、春、如月の花の下に死にたい、という思いだったのだろう。
靖国のこと、さまざまな思いはある。だが、このような人こそ、靖国に祀られて然るべき、と考える。靖国の桜に相応しい、と。
靖国の桜、これで終わろう、と思っていたが、考え直し、あと1枚だけ写真を載せる。


ボウッと浮かぶ満開の桜花の下、多くの人が酒を飲んでいる。神門を出たところ。ここも靖国神社の境内。外苑だ。
多くの人にとっては、ここが靖国神社の桜かもしれない。
靖国に対する思いは、さまざまあるが、時代、時代により、”靖国の桜”の持つ意味合いも、さまざまである。