靖国・YASUKUNI。

朝、練馬の寺に行く。私が、大変お世話になった人のお墓参り。
2月11日の午前中は、この23年間、毎年そう。今にも雨が降ってきそうな空で、23年前の今日も、こんなどんよりとした空模様の寒い日だったな、と思いながら、お線香をあげる。
その後、九段の靖国神社へ行く。これも、いつもと同じである。
たまたまであるが、靖国神社へ毎年行くようになったのは、20数年前から。初めは、日を決めずに行っていた。その内、春の桜の頃、仕事が終わってから、7時の閉門までに駆けつけていた。が、5〜6年前からは、建国記念日のこの日に行くことにした。
九段下に着き、外へ出ると、とても寒く、小雨が降っていた。そのせいもあろう、靖国の境内、例年に較べ、人は少なかった。
いつもは、よく見かける旧日本軍の軍服を着、音程の外れたラッパを吹きながら、何人かで行進をしているような人も、見かけなかった。ここ2〜3年見かけない、茶店の縁台に座り、ハーモニカで、「さらばラバウルよ」などの軍歌の、もの寂しい旋律を吹いていた、年取った男女の二人組は、今年もいなかった。
右翼の街宣車は、午後なので、もう活動は終わったのであろう、いつものように、あちこちに、キチンと2〜30台停まっており、濃い青やカーキ色の戦闘服を着た人は、多くいた。彼ら、若い人ばかりじゃない。案外年を食った人もいる。この日には、日本中あちこちから、靖国へ集結している。右翼の世界も、一般の世界と同じこと。おそらく、高齢化現象があるものと思われる。
靖国の拝殿までの道、大まかに何枚かの写真で辿ろう。

大鳥居(第一鳥居)をくぐり、大村益次郎の像も過ぎたあたり。

青銅の大鳥居(第二鳥居)があり、その向こうに見えるのは、神門。その間に小さく見えるのは、拝殿。

神門に掲げられた日の丸、雨に打たれていた。

神門の菊の御紋章。直径1.5メートルある、大きな菊の御紋章だ。

社頭掲示板。戦場で散った、若者たちの手紙や遺書が、月変わりで掲示されている。
今月は、昭和20年2月20日、比島コレヒドール沖にて24歳で戦死した、海軍大尉・松枝義久命のご両親宛ての遺書が、掲げられている。
<君恩ノ宏遠深厚ナル一死以テ酬イントシテ余リアルモノニ候、・・・身更ニ生還ヲ期セズ 親ニ先立ツ不幸ノ罪何卒御許シ下サレ度候、・・・最後ニ謹ンデ大日本帝国ノ萬歳ヲ御祈リ申上候>、と書かれている。
わずか、24歳の若者が残した遺書だ。
何のかのと言っても、靖国の原点のひとつ、ここにある。
小泉純一郎が、その形態は違え、「心の問題」だとして、毎年、靖国参拝を強行したのもここにある。首相である立場を別にすれば、誰もそれに抗えない。私も、そうだ。
A級戦犯の合祀問題、そして、なぜ、昭和天皇が、1975年(昭和50年)11月の参拝を最後に、靖国に行かれなくなったのか、ということを抜きにすれば、の話になる。
私は、ここ20何年か、毎年、靖国に行っている。もちろん、首相でもなければ、何でもない、ごく普通の人間として。でも、なぜか、とも考える。靖国問題に関しては、多くの人が、さまざまなことを書いている。その幾つかは、私も読んでいる。
その答えが出せないまま、私は、20何年もの間、毎年、靖国へ行っている。これでいいんだ、と思いつつ。ごく普通の何でもない人間なんだからな、と思いつつ。
靖国に関しては、さまざま長くなる。今日は、眠くもなった。また、明日にする。
あとひとつ、拝殿の写真を載せないことには、いけないな。載せよう。

拝殿。
お賽銭をあげ、二拝、二拍手、一拝、をした。