年明け。

年が明けた。
間もなく80となる。驚きだ。
今日は酒を飲んでいた。お雑煮を食うことができた。ひとつであるが餅も食った。
養命酒も飲んでいる。養命酒を勧めてきた古い友人が、プラセボ効果というものがあるぞ、養命酒は効くぞと言う。そうだと思う。山田風太郎が言うように、嫌なことは何もしないようにしようと思っているが、他人の忠告は受けいれようとも思っている。
そういう年代だ。
それにしても去年は碌に動けない年だった。世間一般には新型コロナで云々ということだったが、私個人にとっては何度か具合が悪くなってしまったことによる。
年初には、さあ79歳になるぞあちこちに行こうと考えていたが、唯一オホーツク沿岸をふらふらしたのみとなった。今思うと、よくぞ行ったと考える。現状の私の体調では厳冬期のオホーツク行は不可能である。
それだけに思いは深い。年初、今一度オホーツクの思いに浸りたい。
f:id:ryuuzanshi:20200227124136j:plain
昨年2月下旬、羽田をたった飛行機は女満別上空にかかった。翼の上に知床の山々が見えてくる。
右側の山は斜里岳だ。
f:id:ryuuzanshi:20200227154341j:plain
まず知床の斜里へ行く。
雪原の中を流れる斜里川の先には、オホーツクの流氷がびっしりと迫っていた。
f:id:ryuuzanshi:20200228124419j:plain
翌日、斜里から網走への電車の中から見たオホーツク。
f:id:ryuuzanshi:20200228155713j:plain
網走で砕氷船・オーロラ号に乗る。
網走の砕氷船は2度目。
f:id:ryuuzanshi:20200228154541j:plain
割れた氷が流れていく。
f:id:ryuuzanshi:20200301102557j:plain
網走から紋別へ。
本来はバスであるが、客が私以外誰もいない。網走駅前へタクシーが迎えにきた。
網走から紋別まで私ひとりを乗せたタクシーは、凍てついた道をぶっ飛ばす。スリップしてもどうせ客はじじいがひとり、という思いだったのだろう。
f:id:ryuuzanshi:20200301105840j:plain
紋別のオホーツクタワーから眺めた海面。流氷に覆われている。
f:id:ryuuzanshi:20200301110807j:plain
紋別でも砕氷船に乗った。ガリンコ号だ。
ガリンコ号、網走のオーロラ号とは砕氷システムが異なる。
文字通り、ガリガリって氷を打ち砕く。
f:id:ryuuzanshi:20200301164036j:plain
紋別のホテルに入り、100メートルほど先のセブンイレブンへ道新と寝酒のウイスキーを買いにいった。
行きも帰りも誰にも会うことはなかった。車も通らなかった。
紋別に限らず、北海道の地方都市の街中、このようなものである。人がいない。
f:id:ryuuzanshi:20200302080043j:plain
紋別から雄武、枝幸、浜頓別、そして稚内へのオホーツク沿岸、バスを乗り継いで行く。
f:id:ryuuzanshi:20200302103220j:plain
海岸には流氷がびっしりと。
f:id:ryuuzanshi:20200302152121j:plain
稚内のホテルに入り、窓の外を見る。
すぐ先に突堤が。
f:id:ryuuzanshi:20200303115151j:plain
翌日、突堤へ。
大きな鴉がいた。私との間隔は1メートルばかり。襲われるのじゃないかと怖かった。
こやつと4、5分対峙していた。
f:id:ryuuzanshi:20200303131020j:plain
赤白だんだらのノシャップ岬灯台。
周りに家はある。しかし、人の気配はまったくなかった。
知床の斜里から稚内まで、オホーツク沿岸、人に会うことはほとんどなかった。
得も言えぬ日々だった。
f:id:ryuuzanshi:20200305181817j:plain
小樽に1日寄り、新千歳から羽田へ戻った。
夕刻、羽田に着く少し前、暮れなずむ空に富士山が浮かび上がった。
初めて見る黒富士であった。


f:id:ryuuzanshi:20210101115712j:plain
今日、孫娘と孫坊主が来た。
お揃いのフードのついた、ディズニーのミッキーマウスのパーカーを着ている。
ババが用意したお年玉は、9歳の孫娘に3000円、この春幼稚園へ行く孫坊主は1000円であった。昨年よりは少し上がっている。
孫坊主、何でもむしゃむしゃと食べ、身体は大きいのであるが、お姉ちゃんの言うことにすべて従っている。


f:id:ryuuzanshi:20210101233312j:plain
昨日、日本尊厳死協会の会報「Living Will」の2021年1月号が届いた。
母親と義妹を続けて亡くした蟹瀬誠一、こう語る。「自分の意思で生きていけない状況になったら延命治療は止めてね、とかねがね母が・・・」、と。
まさに、そう。私も。