50年。

昨日は、腹立たしくて仕方なかった。急に文字が打てなくなった。どうしてもウンともスンとも行かない。
「50年」ということについて記そうと思っていたのだが、今日でなければ「50年」じゃなくなっちゃうじゃないか。明日ならば正確に言えば「50年1日」となってしまう。腹立たしいが、どうしようもない。
今日、ふっと気がついた。キーボードがワイヤレスであることに。電池だ、と言うことに。前回電池を変えたのは何時だったか、まったく覚えていない。つい目の前のことなどまさに盲点、目につかぬことだ。
何のことはない。電池を変えると作動した。
厳密に言えば「50年1日」であるが、タイトルはそのまま「50年」として。


その日のことは、よく憶えている。2年遅れで入学した大学も、結核の再発もあり休学、8年でやっと卒業したが、28歳となっていた。まともな就職などおよびもつかず、食うや食わずの日常を送っていた。その翌年、昭和45年11月25日、事件が起こった。
昼近く起き、朝飯を食おうかという時であった。テレビに自衛隊市谷駐屯地のバルコニーで仁王立ちする三島由紀夫の姿があった。それまで見知ったオモチャの兵隊か宝塚を思わせる楯の会の制服を着た。
「話を聞け。男一匹が命をかけて諸君に訴えているんだぞ。・・・ただアメリカの軍隊になってしまうんだぞ。・・・」って。憲法を改正し、自衛隊を正真正銘の国軍、天皇の軍隊にすることを述べている。
額には「七生報国」と記された鉢巻き。「天皇陛下万歳!」を叫び、引っこんだ。
その後の、腹真一文字の切腹、森田必勝による介錯、刎頸の様は、新聞、テレビで次々と報じられた。


三島由紀夫の自裁から丁度50年となる昨日の朝毎読の夕刊、朝日は2面全面「没後50年 三島由紀夫 多彩なる才能」として「お耽美」世界の王道大まじめに」とか審美眼、他。3面の半分も三島由紀夫。毎日には、浜崎洋介の「三島由紀夫が否定した戦後」があるが、どういうことか、読売には三島由紀夫がらみの記事はない。これもなんとー。
東京新聞に、徳岡孝夫の「なぜあの日、そこに 貸した『和漢朗詠集』 何を悟ったか」、という記事がある。
徳岡孝夫は、あの日、三島から市ヶ谷へ来てくれという電話を受けていた男である。自衛隊の敷地内のことであるから、自らの行動を覆い隠されて発表されることを恐れた三島がキチンと伝えてくれ、と託されていたんだ。三島の信頼が深かった模様。
徳岡孝夫は、90ぐらいになるがまだ存命。三島由紀夫が自衛隊市谷駐屯地のバルコニーで演説している時もすぐ下にいた。大阪生まれの徳岡孝夫、「死んだらあきまへんでー」って言ったら聞こえたかな、と語っている。
徳岡孝夫著『五衰の人』(1996年、文藝春秋刊)には、以前私も記したことがある石原慎太郎との『尚武のこころ』所載の「何のために死ねるか」とのことごと、溢れるように出た三島論の中で最も説得力のあったのは石川淳氏の文である、というような記述がある。石川淳の考えは深い。


<前略 
小生たうとう名前どほり魅死魔幽鬼夫になりました。・・・。ずっと以前から、小生は文士としてではなく、武士として死にたいと思ってゐました。>(『三島由紀夫未発表書簡 ドナルド・キーン氏宛の97通』1998年、中央公論社刊)。
三島由紀夫、<小生の行動については、全部わかっていただけると思ひ、何も申しません>、と記している。ドナルド・キーンには解ってもらえるはずだ、と。


中条省平編・監修『三島由紀夫が死んだ日』(2005年、実業之日本社刊)には何人もの人が三島を語っているが、篠田正浩の「日本という病」が正面から対峙している。
篠田正浩、昭和6年生まれ。三島よりは6年年下。が、近い年代と言えばそうも言える。しかし、何度か行きあった三島と篠田、三島が常に上から目線であるのが面白い。


毎月25日発行の「芸術新潮」、昨日12月号が出た。
「特集 没後50年 21世紀のための三島由紀夫入門」。「命がけのトリックスターがいた!」とサブにある。
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同誌を複写。
(左)昭和38年、細江英公撮影、(右)昭和24年、林忠彦撮影。
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(左)昭和45年、自衛隊市谷駐屯地へ乗りこんだ三島由紀夫と楯の会の森田必勝以下4人。
(右)昭和31年、神輿をかつぐ三島。軟弱な身体からムキムキの身体への変貌を遂げる過程。
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現在の日本文学を論じるに、平野啓一郎を避けることはできない。
暫らく前、テレビでこう語っていた。「自分も今、44歳となる。三島が自裁した歳とほぼ同じ歳である」、と。
確かにそう。三島由紀夫は45歳にして押しも押されもせぬ大家であった。そのことに改めて驚く。


三島由紀夫が終生対峙したのは、昭和天皇であった。
以前、このブログで、昭和天皇が内心気にかけながらも、決して表に出さない男として3人の男のことを記したことがある。出口王仁三郎、北一輝、そして三島由紀夫の3人。
三島由紀夫、『英霊の聲』で昭和天皇を糾弾した。
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<などてすめろぎは人間となりたまいし>、と。


『昭和天皇実録』の昭和45年11月25日の記述に、三島の自裁に関する記載はない。
翌26日、<侍従長入江相政の拝謁をお受けになり、作家三島由紀夫についてお話になる。>、との記述があるが、事実関係を記しているのみ。昭和天皇が三島の行動にどう思われたのか、といった」ことに関しては一切言及なし。


近場でも三島の自裁に関して、何冊もの書が上梓されている。
ほんのひと月前、10月末に上梓された佐藤秀明著『三島由紀夫 悲劇への欲動』(岩波書店 2020年10月刊)も面白い。
こういう記述がある。
ゾルレンとしての天皇」として、「斬り死にの計画」という件がある。三島由紀夫の当初の計画は「皇居突入」だったのではないか、というのである。十分考えられる。
三島由紀夫、昭和天皇と刺し違えることも考えていたのでは。
それだけに昭和天皇も存在感があった。
翻って、今上天皇は。
何日か前、天皇、皇后がリモートで感染症の専門家の話をお聞きになられた、というニュースが流れた。激励のお言葉をかけられたそうだ。が、国民には跳ね返ってこない。
何か月も前、原武史が記していたが、国民に対する天皇の言葉が必要じゃないか。菅や小池の言葉じゃなく。


矢口高雄が死んだ。
「釣りキチ三平」の矢口高雄。ずいぶん昔、仕事がらみで仕事場へお邪魔した。思いに残る。


マラドーナが死んだ。享年60。
5人抜きゴールは、今後するヤツが出るかもしれないが、神の手ゴールは、マラドーナに限ったもの。


50年、あれから50年である。
ずいぶん生きたな、という思いはある。50年か、どう言ったらいいのやら、という思いもある。
いずれにせよ時は経った。