三島を観る(7) 補遺(続き)。

早くして世に出た三島由紀夫、その付き合いの幅は広い。
多くの戯曲や新作能を書き、自ら劇団にも深く関わっているので、演劇関係の人たち。美術関係の人たち。密やかな付き合いの人たち。自衛隊の人たちにも、顔が効いたようだ。しかし、最も広い付き合いは、文学関係であること必定である。
川端康成、保田與重郎といった、いわば師匠筋の人は別にしても、少し年上の吉田健一、福田恒存、ほぼ同年代の中井英夫、佐伯彰一、遠藤周作、奥野健男、北杜夫、村松剛、澁澤龍彦、といったいわば仲間内と思われる人たち。少し若い世代の石原慎太郎、大江健三郎、野坂昭如、といった人たち。その幅は広い。もちろん後には、距離を置いた人もいること、これまた必然であるが。
いわば仲間内の人たちとは、文学論も闘わせただろうが、バカ騒ぎもやっている。呵々大笑、賑やかな人、というのが通り相場である。
しかし、三島由紀夫が、友人として最も心を開いていたのは、日本人ではないドナルド・キーンだったのではないか。『三島由紀夫未発表書簡 ドナルド・キーン氏宛の97通』を読むと、そう思えてしかたない。

中央公論編集部による同書の「後記」には、二人の出会い、こう書かれている。
<三島氏とキーン氏の最初の出会いは1954年11月、場所は、その日三島氏の芝居「鰯売恋曳網」が上演されていた東京・歌舞伎座の前で、故嶋中鵬二小社前会長の紹介によるものであった。三島氏29歳、キーン氏32歳のことである>、と。
少し横道に入ると、この嶋中鵬二も、おそらく、三島終生の友であっただろう。それ以上に、日本の文学界にとっては、恩人のひとりである。中央公論社の経営者としては、問題があったが。ドナルド・キーンは、三島より3つ上。嶋中鵬二は、2つ上である。この二人には、どうも三島、心を許している。
ついでに、もう一度横町に入り、脱線する。
後年、嶋中鵬二が死に、中央公論社が100億近い負債を抱え立ちいかなくなった時、それを救ったのが、ナベツネである。読売のドン・ナベツネ、その傲岸さのみならず、老害の最たるものとして、ことある毎に叩かれている。
しかし、日本文学を支え、その一翼を担ってきた中央公論の窮状に手を差しのべたのは、ナベツネのみ。ナベツネの恋情だ。いつだったか、以前にもこのこと、ナベツネの恋情のことは書いたので繰り返さないが、このこと忘れちゃいけない。
本線、ドナルド・キーン宛ての三島の書簡に戻る。
昭和31年(1956年)の正月から、昭和45年(1970年)の三島自裁の日まで、約15年間に渉る三島からキーンへの手紙。これがとても面白い。
外国人の日本文学者、そのとっかかり、古典文学から入る人が多い。ドナルド・キーンもそう。とっかかりは、『源氏物語』。王朝文学ばかりでなく、中世文学、江戸期の文学、日本の古典にめったやたら精通している。
それ故、三島との手紙のやり取りも、お能や歌舞伎の話が多く出てくる。もちろん、三島のその時々の作品についてのことも。東京オリンピックが始まれば、それに夢中になっていることも書いているし、ビートルズの公演に行ったことも、映画をいっぱい観たことも、まあ、身辺雑記、書き送っている。
昭和34年(1959年)1月30日付けの手紙には、こんなことを書いている。
<しかし、「近代能楽集」が70部しか売れないとは悲しいことです>、という笑っちゃうようなことが。あの素晴らしい名作『近代能楽集』の英語版が、この時には、僅か70部しか売れていなかったらしい。私も、悲しい。ドナルド・キーンからそういうことを知らせてきたのだろう。その返事なんだ。しかし、1959年のアメリカでの三島、そうだったのか、とも思う。
昭和36年(1961年)2月1日付けの手紙には、いわゆる嶋中事件のことを書き送っている。
前年末の『中央公論』に発表された深沢七郎の『風流夢譚』(当時、私も読んだ。エキセントリックではあるが、深沢七郎テイストの面白い作品である)に対し、右翼の少年が、中央公論の社長・嶋中鵬二邸を襲った事件だ。お手伝いの女性が殺され、嶋中夫人は怪我を負ったが一命はとりとめた。
三島、ドナルド・キーンへこう書き送っている。
<日本もおそろしい國になりました。・・・・・僕は呆然自失、なすところを知りません>、と。
ところが、その暫く後、2月23日付けの手紙には、こんな能天気なことも書いている。
<・・・・・小生も「風流夢譚」の推薦者だといふ・・・・・危険が迫り、脅迫状もありがたくいただき、毎日警察のbody guardがついて、床屋へも一人で行けない有様、・・・・・護衛つきでナイト・クラブへ行ったりするのも、一寸little kingの気分です>、なんてことを。
三島由紀夫、その折々、ドナルド・キーンに対しては、自らを曝け出している。どうも、3つ年上の兄貴だ、と思っていたフシがある。日本の仲間たちには見せないところも、曝け出しているのだ。
気を許した遊び心も出てくる。初めのうちこそ、「ドナルド・キーン様 三島由紀夫」であったものが、その内、お互いの表記法が変わってくる。
1〜2年後には、「ドナルド・キーン閣下」や「ドナルド・キーン雅兄」になり、その内、「怒鳴土起韻様」になり、「ドナルド鬼韻様」、「鬼韻様」、「怒鳴門鬼韻様」、「鬼韻先生」、「黄殷先生」、「奇院先生」、「奇因先生」、「鬼因先生」、その折々、名前の変化を楽しんでいる。
自らの表記も同じくである。
当初は、三島由紀夫であったものが、「三島幽鬼夫」になり、その内、「魅死魔幽鬼尾」、「幽鬼亭」、「三島幽鬼亭」、「三島雪翁」、「雪翁」、「幽鬼尾」、「魅死魔幽鬼翁」、「魅死魔幽鬼夫」、とさまざまに変化させている。お互いに、気の置けない間柄であったればこその変化だ、と思うな。私は。

そして、<前略 小生たうとう名前どほり魅死魔幽鬼夫になりました。キーンさんの訓讀は学問的に正に正確でした>、と書き出される最後の手紙となる。日付けは、昭和45年(1970年)11月。日の記載はない。しかし、消印は、11月26日。その前日、三島自裁の日に投函されたもの、と思われる。
その後、<小生の行動については、全部わかっていただけると思ひ、何も申しません。ずっと以前から、小生は文士としてではなく、武士として死にたいと思ってゐました>、とあり、続いて、ドナルド・キーンの永年の友情に対し、感謝の言葉を書いている。
その後、ひとつだけ、キーンへの願いを三島は記す。
<ただ一つの心残りは「豊饒の海」のことで、谷崎氏の死後急に谷崎氏に冷たくなったクノップが、これを出し澁ることが考へられます>、とドナルド・キーンへ、クノッフへ目を光らせておいてくれ、と頼んでいる。
クノッフ(三島は、クノップと記しているが、Knopf、クノッフであろう)、その後、世界的な出版コングロマリット・ランダムハウスへ身売りしている。先ほど、検索してみた。
アルフレッド・A・クノッフ、今は、クノッフ・ダブルデイ・パブリッシング・グループとなっている。日本がらみでは、村上春樹やカズオ・イシグロを出している。
『春の雪』は出ている。しかし、『豊饒の海』四部作、すべてが出ているかどうかは、分からなかった。三島の書、いっぱい出てくるのであるが。
三島由紀夫の経歴が記されているところがあった。
三島のそれまでのことを書いた後に、<三島由紀夫は、1970年、45歳で、儀式ばった自殺・切腹をした。世界中から注視された、目を見張る死である>、と。切腹、英語では、儀式ばった自殺、ということ初めて知った。
それはともあれ、ドナルド・キーンさんもご高齢、一日も早く日本へ来ていただきたいな。
三島がらみは、これでオシマイ。