「住み果つる慣らひ」考(4)。

日本人の平均寿命が85歳ぐらいになったのは、ついこの数十年の間のようだが、明治維新の頃までは日本人の平均寿命が50歳であった、という山折哲雄の記述には驚いた。
が、それ以前はどうであったろうか。
<命永ければ辱多し。永くとも、四十に足らぬ程にて死なんこそ、目安かるべけれ>、と兼好法師は『徒然草』第七段で言っている。
それ以後の年齢になると、自らの老醜を恥じることもなくなり、自らを律することもできなくなってしまうのだ、と兼好法師は語る。
「人間50年、下天の内をくらぶれば・・・」の信長は16世紀後半の人、「永くとも、・・・」の兼好法師は14世紀前半の人である。
寿命40歳時代が2百数十年、50歳時代が約300年続いてきて、その後、ここ数十年で一気に平均寿命85歳前後となったんだ。
そうだ、忘れないうちに記しておこう。
数日前からのこの小連載のタイトル・”「住み果つる慣らひ」考”、皆さまお気づきの如くこの『徒然草』第7段の冒頭部分から拝借している。
<化野の露、消ゆる時無く、鳥部山の煙、立ち去らでのみ、住み果つる慣らひならば、・・・・・>の「住み果つる慣らひ」のフレーズを借用した。
ちくま学芸文庫の島内裕子の訳によれば、「人間に死というものがなかったなら」、というほどの意味だそうだ。
ところで多くの先人たちが語る「どう死ぬかってことは、どう生きるかってことなんだ」、と言っている問題に立ち帰る。
どう生きるんだ、生きる目的って何なんだということに。
顕著な例は三島由紀夫の行ないと死であろう。
三島由紀夫、死の1、2年前、彼がこれはと思った10人と対談している。死の数か月前の寺山修司まで。『尚武のこころ 三島由紀夫対談集』(昭和45年 日本教文社刊)、三島の自裁の少し前に上梓された。
その「あとがき」で三島が<・・・相手の懐に飛び込みながら、匕首をひらめかせて、とことんまで・・・>、と記している「守るべきものの価値 われわれは何を選択するか」と題する石原慎太郎との対談が面白い。三島由紀夫が、これのために生きているんだと語っている。
三島由紀夫、「最後に守るべきものは三種の神器しかなくなっちゃうんだ」、と語る。「三種の神器って何ですかって」石原慎太郎。「宮中三殿だよ」、と三島。「またそんなことを言う」、と慎太郎。
少し横道に入る。
このころの慎太郎、べらぼうにカッコいい。老醜をさらす今の姿からは想像もできないくらい颯爽としていた。何より弟の裕次郎などよりはるかに美男子であった。それが、今の老残の姿。
あの石原慎太郎、どうして自裁、自死しないのだろうと思っているが、どうもその気配がない。
慎太郎の初期作品が好きだった者としては、何と言えばいいのかという状態。
それにひきかえ三島由紀夫、いかに生きるべきか、いかに死ぬべきかということを突きつめて考えていたと思う。
昭和45年(1970年)の自衛隊市ヶ谷駐屯地での自裁死については、さまざまな人が言及している。
<たしかに、三島は切腹した。つまり自害をしました。けれど、それは自殺ではないのではないか。戦いだったのではないか。・・・>。福田和也はこう記す(『死ぬことを学ぶ』 新潮社 2012年刊)。
三島由紀夫の遺書は何通もあるようだ。知られているものでは、楯の会会員へのもの、ドナルド・キーン宛のもの。
三島由紀夫20歳の遺書がある。
   遺言   平岡公威(私の本名)
というもの。
   御父上様
   御母上様
で始まるごくごく当たり前の遺書である。
唯一のこととしては、末尾に記された
天皇陛下万歳
であろうか(三島由紀夫『生きる意味を問う』学陽書房 1997年刊)。
天皇の存在こそ生きることの先駆け、魁であったのだ。三島由紀夫にとって。