ペギー・グッゲンハイム アートに恋した大富豪。

せっかく生まれたんだから、死ぬまで好き勝手なことをして死にたいな、と誰しもが思うが、誰もが等し並にそうできることではない。
世の中は、不公平なんだ。「働けど働けど・・・・・じっと手を見る」の啄木的人生が、まあ普通。
ところが、そんな人生があることなど露知らず、勝手気ままな人生を送って死んでいった人もいる。好きなこと、やりたいことを好き勝手に。ペギー・グッゲンハイムは、そういう幸せな人生を送った。
f:id:ryuuzanshi:20181126150254j:plain
写りが悪いが、右上にはこう記されている。
<魅力的な世間知らず。自己顕示欲のかたまり。自由な女性の”荒れた”見本。20世紀美術のミューズ。>、と。
ペギー・グッゲンハイムについては、一昨年2018年暮れのブログで触れたことがある。その秋に東博で催されたマルセル・デュシャンの大がかりな展覧会の折りに。
いや、ともかく、ぶっ飛んだ破天荒な人生を送った。
f:id:ryuuzanshi:20181130121123j:plain
『ペギー・グッゲンハイム アートに恋した大富豪』、監督は、リサ・インモルディーノ・ヴリーランド。
ペギー・グッゲンハイム、グッゲンハイムの一族。ニューヨークのグッゲンハイム美術館を造ったソロモン・グッゲンハイムの姪っ子。フランク・ロイド・ライトの手になる、ソロモン・グッゲンハイムの螺旋の美術館に行った時にも驚いたが、ペギー・グッゲンハイムは驚きの連続という女性。
f:id:ryuuzanshi:20181126150343j:plain
1898年生まれのペギー・グッゲンハイム、1920年代にヨーロッパへ渡る。その頃のこれという若者、そいう連中が多くいる。金があろうとなかろうと。ヘミングウェイの「パリは、いつも移動祝祭日」の時代である。
が、当時のパリのアメリカ人の女帝・ガートルート・スタインとの接点は、どうもない。ペギー・グッゲンハイムは実作家ではなく、パトロネス(庇護者)であった故であろうか。ペギー・グッゲンハイムはベネツィアがお気に入りだったそうだし。
30年代となると、ヨーロッパもだんだんキナ臭くなっていく。その頃はマックス・エルンストと結婚していたペギー・グッゲンハイム、エルンストと共にアメリカへ帰る。それと共にペギー、多くの作家たちを助けている。
アンドレ・ブルトン、サルバドール・ダリ、トリスタン・ツァラ、マン・レイ、ポール・エリュアール、ジャン・アルプ、イヴ・タンギー、・・・、・・・。凄い面々である。
それと共に、ペギー・グッゲンハイムの男遍歴が凄い。上の面々の何人もがペギーの男となったのではなかろうか。短期限定の。
アートの庇護者として知られる女性で最も凄まじい男遍歴を誇る女性は、エルミタージュ美術館の礎を造ったロシアの女帝・エカチェリーナ2世である。公にされているお相手は10人ばかりだが、そうじゃない相手は3桁を越えると言われている。ペギー・グッゲンハイムはそれには遥かに及ばないが、それでも次々に。
実は、ペギー・グッゲンハイム自身は美人とは言えない。むしろその逆と言う方が相応しい。そのような場合、通常は二枚目の男を選ぶ。しかし、ペギー・グッゲンハイムには男を選ぶ基準がある。相手の容姿などはまったく考慮の外、関係ない。相手に望むことは、ただひとつ。才能のある芸術家であるかどうか、ということだけ。
戦後、伯父の美術館、つまりあのソロモン・グッゲンハイム美術館で大工の仕事をしていたジャクソン・ポロックを見出し、あのポロックにしたのもペギー・グッゲンハイム。
才能あふれるポロックは、ある時期ペギー・グッゲンハイムのお相手であったであろう。
マーク・ロスコ、ロバート・マザーウェル、コンスタンティン・ブランクーシ、ジョセフ・コーネル、・・・、・・・。
ペギー・グッゲンハイムが長く暮らしたベネツィアの邸宅が、ペギー・グッゲンハイム・コレクションとして公開されている。そのコレクションが。
知らなかった。だいぶ前だがベネツィアへ行った時、腹具合が悪くなり、サンマルコ広場に座り、1時間以上もハトにエサをやっていた。知っていれば。
f:id:ryuuzanshi:20181126150348j:plain
「アートに恋した」って、「アート中毒」ってことだな。
ああ、ひとつ忘れるところであった。
1920年代、ヨーロッパへ渡った金持ちのお嬢さん・ペギー・グッゲンハイムの先生は、マルセル・デュシャンであったってことを。デュシャンあってこそのペギー・グッゲンハイム。
ペギー・グッゲンハイム、1979年、81歳で死んだ。ほどよい年だ。