オホーツクふらふら行(17) 紋別の町。

とっかりセンターを出た後、海洋交流館の食堂へ戻る。何々と頭に付いていないシンプルなラーメンを食った。
暫らく休んだ後、3時ごろ紋別市内のホテルへ。海洋交流館の人に市内へ行くバスを訊く。ここを出てすぐ左の方にあるとのこと。
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出てすぐ左手にバス停があった。
よく憶えていなかったが、朝の網走からのエクスプレスバス(実際にはタクシー)もここに着いた模様。
しかし、紋別の市内へのバスは既になかった。海洋交流館へ戻り、タクシーを呼んでもらう。さほど待たず15、6分でタクシーは来た。
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紋別プリンスホテルのエントランスには、こういうものが。
フクロウのようなものの中に、「紋太くん」というものもあった。
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さまざまウエルカムであるが、人は少ない。
司馬遼太郎は1992年の冬、稚内から浜頓別、枝幸、雄武、興部とオホーツク沿岸を南下し、紋別へ入っている。既出の『街道をゆく38 オホーツク街道』にある。
その日の夜は、紋別市立郷土博物館の何人もの人たちと宴席を持っている。司馬遼太郎の行く所、あちこちの博物館の学芸員やその他の人たちが待ちかまえている。そりゃそうだ。これらの人たち、司馬遼太郎に会い、話しあったことを、一生の思い出として子や孫に自慢していたに違いないから。
司馬遼太郎、翌日は紋別西郊のオムサロ遺跡へ行っている。で、オホーツク人、擦文人に思いをはせる。アイヌ民族の祖先であるこれらの人たちや文化について。与謝野晶子の歌についても。
それはそれとし、ホテルへ入った私は暫らくベッドの上ででひっくり返っていた。当たり前だが、司馬遼太郎のように待ちかまえている人などいない。
ホテルの夕食までは、まだ時間がある。来る時、タクシーの運転手が「すぐ近くにコンビニがあります」、と言ったコンビニに行くこととする。
その日の道新と寝酒のウイスキーポケット瓶を買うため。4時半すぎ。
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ホテルの7、80メートル先にセブンイレブンがある。
右上の方に。
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ストックを使いゆっくりと歩く。
向こう先の方はオホーツク海である。
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セブンイレブンで道新とウイスキーのポケット瓶を買う。
それにしても紋別の町、静かである。
夕刻である。しかし、ホテルを出てここまで、人に会わない。走っている車もない。
町の中、静かである。音がない。
44、5年前のことを思いだす。
44、5年前の1月15日の祝日に結婚式を挙げた。神谷町の英国国教会の教会で。教会の集会所でささやかな披露宴を行った。その後、羽田から札幌へ飛んだ。その日のホテルの予約は入れてあったが、その後は行った先々、という具合であった。
札幌から旭川へ行き、その後は紋別へ行った。今はないが、紋別への汽車があったころである。夕方、紋別へ着いた。駅前の公衆電話ボックスには電話帳がある。紋別の宿が幾つも出ている。その公衆電話から電話した。しかし、呼び出し音はするが、出ない。3軒も4軒も。5軒目あたりで年寄りらしき人が出た。
「ここは宿屋であるが、今は閉めている」、と言う。「ワシはばあさんと二人で留守番をしている」、とも。「今の時期、紋別で開いている旅館はひとつもない。冬に紋別に来る人などいないから」、と。「いったい、あんたは何で今ごろ紋別に来たのか?」と言う。実は、新婚旅行で来たと言うと、そのじいさんは驚いた。
今ごろ紋別に、それも新婚旅行で来るヤツなど聞いたことがない。何考えてんだお前は、ともそのじいさんは言う。
旭川へ戻る汽車もない。このままでは凍え死ぬか、とも思った。と、じいさんが助けてくれた。
「旅館はやってないが、泊めてやる。料理はない。ワシとばあさんが食うものはあるので、それを食ってもらう」、と。駅からこうこうこうやって来い、と言った通りに進んだらすぐに分かった。
ご飯とみそ汁に漬物があったが、他に何があったか憶えていない。が、ただひとつだけ憶えていることがある。
大きなガラスの瓶に入ったイクラの醤油漬けである。「幾らでも食ってくれ」、と言われ、食った。美味かった。
44、5年前の紋別、このこと以外何も覚えていない。海を見に行ったかどうかも。流氷が来るころであるが。
その後、汽車とバスを乗り継いで浜頓別のクッチャロ湖へ行き、スノーモービルで凍った湖面を走りまわっていた。と、カミさんがもう帰りたい、と言いだした。
宿も決めず寒いところを歩いているヤツなどには、つきあっていけないということである。
その頃は、浜頓別から音威子府への汽車があった。音威子府へ出、旭川へ戻った。そして、札幌へ。
その後、羽田離婚とか成田離婚という言葉を聞くようになった。ヘンな男と結婚した女はバンバン別れることとなった。が、その前だったので、私のところは続いている。
思いに残る紋別である。
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その日、3月1日の道新一面。
左の方に、<知事、首相に重点対策要望 国民的な応援呼び掛け>、とある。
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中面には、こういう記事も。
<知事、官邸パイプ稼働 「やり過ぎ感」指摘も>、との。
北海道知事・鈴木直道、安倍晋三と面会、北海道をどうこうと言っているんだ。周りの声はあまり聞かずに。独断でどんどん進む。
鈴木直道、高校を出た後大学進学を諦め、東京都庁へ入ったそうだ。が、翌年、法政の二部へ入り、働きながら卒業したそうだ。26歳の時、財政再建団体となっていた夕張市へ派遣される。1年の予定で都庁から2名が。1年後、1人は東京へ帰る。が、鈴木直道は志願して夕張へ残る。さほど時を経ずして夕張の市長となり、北海道の知事となる。
菅義偉が可愛がっているそうだ。そう言えば菅義偉も苦労人。働きながら同じ法政の二部を出ている。同じような苦労人の後輩、可愛いのであろう。
オホーツク沿いの町ではタクシーによく乗った。その度、運転手に鈴木直道のことを訊いた。運転手の皆さん、異口同音にこう言う。「その内、国政に行くでしょう」、と。
鈴木直道、やや趣は異なるが、田中角栄を思わせるところがある。年も若いし。
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その日のオホーツク地方の天気。
紋別の気温は、最高ー4度、最低ー11度であった。女満別の最低は、-22度。寒かったんだ。
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コンビニの新聞売場、道新の隣に「北海民友新聞」というものがあった。100円。買った。
見開き4ページの新聞。日刊である。第19885号と記されている。道新の3分の2以上の歴史がある。
一面トップは、紋別の高校卒業者の就職内定率が97%である、というもの。
記事を読むと、今年の紋別の就職希望者は66人。内64人が内定した、という。紋別はオホーツク沿いの町では大きな町である。「市」である。それにして何とも少ないこの数字。オホーツク沿岸の町々の現状がよく解る。
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中面にはこのような記事が。
そりゃそうだ。凍結した道路が多いのだから。
この日の朝、網走から私の乗った車の運転手も凍結した道路をぶっ飛ばしていた。スリップしてひっくり返ってもそれはそれ、と思っていたが。


安倍晋三、明日、緊急事態宣言を出すらしい。
ずいぶん遅れた感はあるが。
安倍晋三、それに伴う緊急経済対策を発表した。
GDPの2割にあたる108兆円の。
いいんじゃないか。赤字国債を発行すればいい。国家、未曽有の事態となってしまったのだから。
生字引があちこちに。