トプカプ。

アジアの国々ばかりでなく、アジアとヨーロッパの間に位置する国々やアフリカの国々には、日本に深い思い入れを持つ国が多い。
1905年5月28日、東郷平八郎率いる連合艦隊がロジェストヴェンスキー率いる大国ロシアのバルチック艦隊を木っ端みじんに打ち破った。世界中を驚かせた日本海海戦である。
とりわけ大国である帝政ロシアの圧力を受けていた国々の人たちは快哉を叫び、日本という国を好きになった。帝政ロシアの南下政策に苦慮していたトルコも然りである。
ムスタファ・ケマル・アタチュルクも、小国・日本のアドミラル・トウゴーに魅せられる。
1923年、ムスタファ・ケマル・アタチュルクはスルタン制を廃止、世俗主義の共和国をつくる。
この手の話は面白い。
そうなんだが、実は、少し話がずれてきた。
今日はそれ以前の話。トプカプ、スルタンの宮殿の話である。
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春過ぎ夏前、地下鉄乃木坂駅から国立新美術館へ向かう通路の壁面。
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地上へ出てウッドデッキを歩く。
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トルコ至宝展。
オスマン帝国の華麗な美が・・・。今年はトルコ文化年だそうだ。
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トプカプ宮殿の至宝約170点が来日、と。
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行進用の兜(17世紀)。
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≪スルタン・アブデュル・ハミト2世の花押≫(19世紀)。
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イスタンブールのトプカプ宮殿、マルマラ海と金角湾に面する。2度訪れた。
初めて訪れた折り求めた書が2冊出てきた。トプカプには日本人も多く訪れる。内1冊は日本語版である。
16/08/94という書きこみがある。1994年の8月、お盆休みに行ったようだ。以下、その折り求めた書から複写する。
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トルコ至宝展にも短刀が来ているが、それらは最上のものではない。
トプカプが誇る最上の短刀は、バカでかいエメラルドが3つはめこまれたこの短刀。その名、「トプカプ」と呼ばれる。
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長い羽織のような衣装・カフタン、カッコいい。
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トプカプといえば、やはりハレムだ。
さまざまな人種の若い美女が、多い時には300人ほどいたそうだ。
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ハレムの主要門「ジュムレ・カブス」、と説明書きにある。
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<寵姫達の内庭とハレムの女性達の部屋>、とある。
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ハレムの女性たちにも、さまざまなランクがあった。
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それらの女性たちの護衛や召使には黒人も多く使われていた。
男の場合には去勢した。中国の王朝と同じ。宦官だ。
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皇太子のハレムの内部。
多くの色タイルの装飾が施されている。
ハレム、1923年ケマル・アタチュルクがスルタン制を廃止、世俗主義の共和国を建設するまで続いた。

現在のトルコ大統領・エルドアン、アタチュルクの世俗主義からイスラムの原点であるムスリム至上へと舵を切っているようだ。
ケマル・アタチュルクが目指していたものとは異なる。


音声ガイドは木村文乃。が、思いに残っていない。
古い陸軍行進曲・「ジェッディン・デデン」の調べのみが耳に残る。