「住み果つる慣らひ」考(22)。

<1968年に亡くなった画家マルセル・デュシャンの墓碑銘には、「さりながら死ぬのはいつも他人」という言葉が彫られているそうである>、と大岡信の『永訣かくのごとくに候』(弘文堂 平成2年刊)の「序 死ぬのはいつも他人」は書きだされる。
25年以上も前の本、やはり積読になっていたものである。が、「大岡信の永訣かくのごとくに候」という文言は常に頭の片隅にはあった。
帯に、<死の一瞬を鮮烈に生きる 苦しみと憂慮と思いやりと思索の中で人の死が「生きられて」いた時代を、・・・・・見つめる>、とある。
読むと面白い。詩人・大岡信、その詩魂をかけて直球勝負を挑んでいるんだ。
何日か前に触れた川端康成の『末期の眼』も出てくる。真向幹竹割りとまでは言わないものの、白刃一閃、ノーベル文学賞受賞者を切り捨てている。<・・・・・川端康成のエッセーというにはあまりにも要領を得ない。たゆたいの多い文章である>、と。
さまざまな人が登場するが、この書、全10章の内3章が芭蕉に当てられている。
このように・・・
<四 芭蕉の夢の枯野の吟>。
<五 芭蕉遺書、臨終、”辞世”考>。
<六 『おくのほそ道』、その位置と意味>。
何と言う章立てであろうか。この文字づかいというか、文の組み立て方、一歩踏み間違えれば取り返しがつかない、という文言、構成ではないか。
その言葉の用い方、四、五、六、てんでんばらばらと言えば、てんでんばらばらである。しかし、ここに詩人・大岡信の「詩魂」を見る。「死」にたいする「魂」も。
<芭蕉は元禄7年(1694)10月12日、旅先の大坂南御堂前花屋仁右衛門の貸座敷で、猛烈な下痢に始まった急激な衰弱のため、痩せおとろえて51歳で世を去った>。
<・・・・・、たぶん疑いもなく、僧文暁編・花屋庵奇淵校と銘うった『花屋日記』だった。これは元来『芭蕉翁反古文』と題して・・・・・>。
<ところがこれは、実際には、肥後の僧文暁が、虚実とりまぜた資料操作に」よって作った・・・・・>。
<しかし、『花屋日記』は長い間芭蕉の臨終記録として強い印象を人々に与えてきた本であって、・・・・・>。
<『花屋日記』で芭蕉臨終の日々の門弟たちの真情溢れる「手記」を読んだのち、・・・・・>。
フィクションである『花屋日記』のことごとが記される。
<かくいう私自身、まさにそのお仲間の一人だった>。
<名ある俳人なら、臨終に辞世の句を残すのが・・・・・。支考・乙州等、去来に何かさゝやきければ、去来心得て、・・・・・。師の言、きのふの発句はけふの辞世、今日の発句はあすの辞世、我生涯云捨し句々、一句として辞世ならざるしはなし。・・・・・>。
少しややこしいが・・・
     旅に病で夢は枯野をかけ廻る
大岡信は、次いで第五章、こう書きだす。
<前章に続けて、芭蕉臨終の模様を日を追って見てゆくことにする>。
<ところで、私は芭蕉の「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」という句を、もっぱら生涯最後の一句という観点から、辞世であると言えば言えるし、辞世でないと言えばそうも言える句として取りあげてきた>。
<しかし、・・・・・。そういう観点からするなら、私は芭蕉の辞世に最もふさわしい句は、・・・・・、次の句だろうと思う>、と大岡信は記す。
     秋深き隣は何をする人ぞ     翁
<この句の背景には・・・・・>。
第六章の書きだしはこうである。
<『おくのほそ道』をめぐって書こうと思う>。
大岡信の言葉、とてもシンプル。それと共にとても硬質、ソリッド。死を思うに相応しい。
「永訣かくのごとくに候」、永の別れ、いかに死ぬか、死ぬべきか、思いの外長くなってしまったが、これにて終わろうと思う。
死ぬのは難しい。
しかし、自らの意志で死にたい。


あとひとつ、プラスアルファをを。明日。


ドナルド・トランプとキムジョンウン(金正恩)、6月12日にシンガポールで会うことになったそうだ。
ノーベル平和賞への道を進んでいるようだ。昨日までそれとは真逆な二人であるが。
歴史は不思議に満ちてんだ。