主従二人(雲厳寺)。

黒羽に長逗留している主従二人、雲厳寺へも行く。
雲厳寺の奥にある、仏頂和尚の山居の跡を訪ねたいと思ったのだ。この仏頂という和尚さん、鹿島の人だが、江戸深川の臨川寺にも逗留、黒羽近郊の雲厳寺にもしばしば滞在していたらしい。芭蕉とは、深川で知り合ったようだ。
”縦横5尺たらずの小さな庵だが、雨を避けるために致し方なく、一所不在の雲水の身には、本来はこんなものは造りたくはなかったのだが、と松炭で岩に書きつけた”、ということを以前に和尚から聞いた、と芭蕉は書いている。
黒羽から雲厳寺までは12キロほどあるそうだが、その道々は誘いあって来ている人、また、若い人も多く賑やかで、おぼえず山麓まで来てしまった、とも書いている。よく歩く。健脚だ。
山中は奥深く、松や杉が黒々く、苔からは水がにじみ出ているように見え、4月(今の5月下旬)だというのに、寒いくらいだった、と続く。
山門をくぐった芭蕉、さて仏頂和尚の庵はどこに、と後ろの山によじ登る。と、岩にもたせかけて造ってある小さな庵が目に入る。
<妙禅師の死関、法雲法師の石窟をみるがごとし>、と芭蕉は記している。5尺、1.5メートル四方だから、タタミにすれば1畳半もない。雨露をしのぐだけの小さな粗末な庵。一所不在、遁世の棲み家としては、その高潔なる様、理想的。芭蕉がこう書いているのも、肯ける。
なぜなら、『菅菰抄』にこう書いてあるからだ。
<妙禅師ハ、中華宋朝ノ僧ニテ、高峰ト云う山ニ処リ、生涯戸ヲ閉テ出ズ。法雲ハ、法運ノ誤ナルベシ。石室ニ籠リ、馬糞ヲ焚キ、芋ヲ煮テ食ヒシ僧ニテ、・・・・・>、と。死関は、妙禅師が、死ぬまで座禅を組んでいた石窟に懸けられていた扁額だそうだ。
仏頂和尚の粗末な庵、この中国の座禅三昧の二人の僧を思わせるほどストイックなもの、と芭蕉は感じたんだ。さすがだ、と深く感じいったんだ、芭蕉は。そこで、この句を即興で詠む。
     木啄も庵はやぶらず夏木立
何でもツツいてしまうキツツキも、この仏頂和尚の庵だけは突き破らずにいるらしく、夏木立の中の小さな庵、静かな姿を保っているな、ということだろうか。芭蕉、キツツキも徳のある高潔なお坊さんのことは分かっているんだ、と言っているようでもある。
また、日夜座禅を組んでいるわけではないが、旅に明け暮れ、一所不在に近い漂白の己が身を、重ね合わせたのかもしれない、とも思う。
なお、曽良の『俳諧書留』は、旅の先々で巻いた歌仙を記したものが多いのだが、雲厳寺のくだりには、珍しくこう記している。
<四月五日、奈須雲厳寺に詣で 仏頂和尚庵を尋>、とし、その後に、「木啄も・・・・・」の芭蕉の句を記した後、こう書いている。
<翁に供せられて、雲厳寺に遊ぶ。茂りたる山の入口より清冷たる川に遊びて、三町歩て山門に至る。鉢孟峰、竜雲洞、千丈・玲瓏ノ岩、五橋、三井、総てかんのううごかざる所なし>、と。
<雲厳寺には、十景・五橋・三水など云佳境あり>、と『菅菰抄』にはある。
芭蕉は、ここ雲厳寺で、仏頂和尚の小さな庵に感じいっていたようだが、お供の曽良は、雲厳寺のあちこちにある佳境を楽しんでいたようだ。