光明院と赤城神社。

一茶双樹記念館のすぐ近く、100メートルもあるかどうかという所にお寺がある。小さな寺・光明院。一茶と双樹の連句碑がある。
4日の日、時刻はまだ3時前。近場の街へ飲みに行く前に30分ばかり寄った。初詣である。

光明院。
右側の石柱に「双樹一茶・・・」、とある。

赤城山光明院。

赤城山光明院、真言宗豊山派の寺。
小ぶりながらも趣きのある山門である。

冬の陽の中に一茶双樹の連句碑が建つ。

このようなものであるようだ。

本堂。
お賽銭をあげ、いつも通りのお祈りをする。
なお、右側には後半部分が読めないが、「一茶ゆかりの寺」と書いてあり、左側には、「新選組隊士分宿の寺」と書いてある。そう、一茶と新選組である。
慶応4年(1868)官軍に追われた新選組は、4月1日江戸川を渡り流山に入る。隊長の近藤勇と副長の土方歳三は長岡七郎兵衛の藏に入るが、隊士の面々は光明院と流山寺に分宿した。光明院、そのことを記している。
ところで、下総・流山、全国区・日本人の多くが知る人物が2人いる。
小林一茶と新選組の近藤勇である。共に流山の人間ではない。よそ者である。一茶は50回以上流山を訪れているが、近藤勇の流山滞在はわずか3日である。4月3日捕えられ、板橋で首を討たれる。
しかし、近藤勇は、流山では一茶と共に全国区の人物。

本堂の横にこのような案内がある。
大〆縄は右の方だ。
が、大〆縄の左に「洒汀墓」とも書いてある。
洒汀、秋元洒汀である。明治から昭和初めにかけての秋元家の当主。
洒汀、醸造家であり、やはり俳人でもあった。さらに、双樹以来の芸術家を支援するというパトロンのDNAまで引き継いでいた。
洒汀、岡倉天心の弟子たちを支援したらしいが、中でも力を籠めたのは菱田春草への経済的支援。春草死後も春草のために、ということだったようだ。
それはそうと、右の方へ歩く。すぐ地続きで・・・

郷社赤城神社の大注連縄が現れる。

500キロであるというこれ。

なるほど。

なるほど。

昨年の初詣、大宮神社では、松の小枝に紙垂をつけたしめ縄がつけられていた。
今年の赤城神社では、石碑や石仏、木の切り株などに紙垂をつけた細いしめ縄が巻かれている。

ここでも。

赤城神社本殿。

その説明板。

本殿にお賽銭を投げ入れ孫娘と孫坊主の幸せな行く末を願う。
正面の鈴の紐をを大きく振ったら、ジャランジャランと大きく響いた。これは縁起がいいのでは。

本殿の裏へ。
あちこちに白い紙垂。


今日昼、大阪・花園ラグビー場での全国高校ラグビー決勝を見る。
大阪桐蔭対東海大仰星のゲーム、両校共に大阪の学校、大阪決戦である。このゲーム、昨日の大学選手権決勝に負けないくらいのいい試合、グッゲームであった。
この大会、大正7年(1918)以来で今年は97回目となる。100年が経つのに97回目とは、と誰しもが思う。昭和18、19、20年の3年間は催されなかったんだ。戦争の最中の3年間。
このゲーム、大阪桐蔭が押していた。
フォワード戦でも完全優位、押していた。前半、大阪桐蔭、17−10で折り返した。さらに後半、PGも加え20−10。が、東海大仰星反撃する。東海大仰星のバックス、素晴らしい働き、3トライ1ゴールをあげ逆転する。
後半ノーサイド直前、東海大仰星のゴール前5メートルでの攻防、見応えがあった。大阪桐蔭、今一歩攻めきれなかったが。
グッゲームであった。