茂野柰園パフォーマンス。

稀勢の里が引退したり、伊藤が急死したりしたことなどがあり、この「流山子雑録」、前へ進む気力が萎えていた。
が、あとひとつ、6日に行われた茂野柰園のパフォーマンスを記し、年初、年初め、この正月のひとくくりとする。でないと、前へ進めない。


江戸時代の後期、18世紀後半から19世紀初めにかけて、味醂の開発者の一人といわれる五代目秋元三左衛門は、本業の一方、双樹と号して俳句をたしなんでいた。
下総・流山に住まいするその秋元双樹のもとに、小林一茶は生涯に50回以上訪れている。俳友といえばそうではあろうが、まあ、双樹は一茶の谷町・パトロンであったというのが自然であろう。
今、秋元双樹の屋敷、安政期に建築した新座敷と呼ばばれる建物を現在地に曳屋したり、増改築、庭園も整えて「一茶双樹記念館」として公開されている。
記念館である秋元本家、一茶庵、それに双樹亭の3棟の建物がある。
茂野柰園のパフォーマンス、双樹亭と枯山水の庭園を使って催される。

この正月6日の一茶双樹記念館。

本家の「みせ」。
「賀正」、「天晴」の文字は、茂野柰園の手になるもの。

中門をくぐり、双樹亭の方へ。
枯山水の庭内に既に茂野柰園は立っていた。袴姿にピンクの襷がけ。
小柄な茂野柰園、巌流島で宮本武蔵を待つ佐々木小次郎を思わせる。

この右手から入った。

「この着物、20代の頃、自分でミシンで縫ったものです。若い頃の教師時代に着ていました。墨が多少跳ね返ってもいいようにこれを着てきました」、と茂野柰園は語る。

今年の干支に因み・・・

この文字から。

「亥」。篆書体である。

司会の人が気を利かせて言った文字。

平和の和。

観客のリクエストも取りながら進んでいく。

私たち観客。

     餅雪を 
 しら糸となす・・・

       柳哉
芭蕉の句である。

山形生まれの茂野柰園、「餅雪っていうのは、それはもうお餅のように白くて深い雪なんです」、と語る。

書いた書、一茶双樹記念館の係の人が枯山水の上に並べていく。

   正月や
 梅のかほりの
      大吹雪
一茶の句である。

墨書されたものは次々に並べられていく。
そして、希望者に分け与えられる。大きすぎる。私は貰うワケにはいかない。

     山動く 
  兆しのひかり 
      蕗の薹

茂野柰園の催しでは時折り見かける「先生」と呼ばれている人の句。
私も何度か見かけた。いわゆる郷土史家のような人であるらしい。

「龍」というリクエストがあった。

「龍」。

「私は琴をやっているのですが、コトという字をお願いします。「琴」でも「筝」でもかまいません」、という声が飛んだ。
茂野柰園、「筝」の方の字を書きましょうと言ってこれを書いた。

「和して同じず」、という声が飛んだ。
「こういう字だったでしょうか」、と茂野柰園。

こういう画数の少ない字は難しいのです、と語る。

茂野柰園の書のパフォーマンスも終わりに近づく。
双樹亭にはこのような女人も現れた。

が、ここで「おまけ」があった。
双樹亭の縁側に座った茂野柰園、お好みの字を書くという。

私は早速申しこんだ。
「梨花と仁 宝なり」、と書いてもらった。
「梨花と仁」って孫娘と孫坊主の名前である。じじバカ極まれりってものであるが。

朱で落款・印も。

「沙羅双樹」って書いてもらっている人もいた。

今月6日、下総・流山、双樹亭での模様。