小林一茶の世界に迫る 茂野柰園展。

やはり春、4月下旬、書家・茂野柰園から展覧会の案内状が届いた。

こういう小さな紙片もついている。

一茶双樹記念館での「小林一茶の世界に迫る 茂野柰園展」。
宝暦13年(1763年)信濃柏原で生まれた小林一茶、14歳で江戸へ出てくる。江戸の外、下総、馬橋の油屋で働いていたこともある。油屋の主人・大川立砂は俳人であった。
下総の地・流山に味醂の醸造家・秋元三左衛門がいた。やはり俳人である。俳号は双樹。
小林一茶、流山の秋元双樹の許へ通う。50回以上に亘り。その当時、馬橋から流山まで、道なりでおそらく10キロ弱。
ところで、流山はじめ下総の地には、一茶の研究家が何人もいる。この日、そのひとりの話もあった。馬橋から流山の秋元双樹の許に50数回通った小林一茶、延べ160日余を流山で過ごしていた、という。秋元双樹の屋敷で。

茂野柰園の展覧会、双樹亭で行われている。

が、その隣の一茶庵から入る。
右手の建物が双樹亭。

一茶庵入口。

小林一茶、流山の秋元双樹の許に50数回通い、双樹の屋敷に160日余滞在し、数多くの句を詠んだ。
一茶庵を入ったところには、一茶が流山で詠んだ句が数多く記されていた。
その一部のみ。

一茶庵から双樹亭への渡り廊下を進む。
     あの月を とってくれろと 泣く子哉
百姓であり、写真家でもあり、庭師でもある森さんが切った材に書かれている。

双樹亭、3部屋からなる。
手前からおちゃの間、なかの間、おくの間。8畳、8畳、10畳。茂野柰園の個展、この3部屋に展示されている。

おくの間。

このような茂野柰園の「ご挨拶」があった。

秋元双樹、小林一茶、二人の連句。

     我と来て 遊べや親の ない雀
     悠然として 山を見る 蛙かな
     鳴く猫に 赤ん目をして 手毬かな
     ・・・・・ ・・・・・ ・・・・・

     梅が香に障子ひらけば月夜哉

「露の世は 露の世ながら さりながら」の『おらが春』より。

文意はこのようなもの。

     露の世は 露の世ながら さりながら
茂野柰園の筆で。

百姓であり、写真家であり、庭師でもある森さんと茂野柰園。

森さんが切った材に茂野柰園が書いた文字は、「双樹仏の野送りおがみて」。右下に文化九年十月二九日とあり、一八一ニとの文字もある。
文化9年(1812年)10月29日、秋元双樹のが亡くなり葬儀が行われた日である。茂野柰園、その心中に、秋元双樹の最後を思っているのやもしれない。

1時すぎだったろうか、茂野柰園ののミニ講演会が始まった。
聴衆は限定30人。途中、お茶菓子も出る。

一茶の句を語ったあとこの紙片が配られた。
書家・茂野柰園の礎となった古典について。臨書である。大きく4つについて記されている。

その一番。中国戦国時代の金文。

その臨書。

その二番目は、これであろうか。
漢代の隷書。
後ろに掛かっている軸が、茂野柰園による臨書。

三番目は、空海、請来目録である。
書家・茂野柰園が手に取っているのは、空海の書。そのうしろにあるのは茂野柰園の臨書である。

空海≪請来目録≫臨書。

四番目。良寛の「般若心経」。
この日、茂野柰園はしきりに「私は特に細楷に魅せられる」、と話していた。「細楷」とは、この良寛さんの書のようなごく普通の書のことらしい。
茂野柰園の書、力強い文字にも惹かれるが、何気ないすぐお隣の文字にも味がある、ということであろう。

最後にお土産をもらった。
木に書かれた文字が並べられた。皆さんそれぞれに取る。私は、残った中から「安」の字を取った。安寧の「安」、を。


舛添要一がやっと辞職した。
そのさま、見苦しかった。
海外メディアでは、「SEKOI」という言葉が流れているそうだ。「SUSHI」や「SUKIYAKI」と同じような日本語として。やな言葉が流れちまった。