京都・洛西苔めぐり(4) 落柿舎。
落柿舎へ。
常寂光寺を出たあたりの標識。落柿舎まで徒歩3分。
落柿舎の手前に宮内庁が管理する墓所がある。
嵯峨天皇皇女有智子内親王墓、と記されている。
落柿舎の前には、何やらこの建物にはそぐわない風体の多くの人たちがいる。タオルを首にかけた男やバンダナのように頭に巻いた男などが。
落柿舎に入る時、受付の女性に訊いた。「何かやっているのですか?」、と。「水戸黄門の撮影です」、と返ってきた。
と、突然後ろからふたりの若い男が入ってきた。ふたりとも背が高い。その風体から助さん格さんであることが分かる。レフ板を持っている男もいる。
落柿舎の本庵の前は、水戸黄門の撮影クルーの人たちばかり。
「どうぞ、どうぞ。通ってください、通ってください」、と言われ、急いで彼らの間を通り抜ける。撮影の邪魔をしてはいけないな、との思いが沸く。それがためとは言わないが、去来の句碑を見過ごした。
実は、このすぐ右手に落柿舎を営んだ向井去来の句碑がある。
柿主や梢はちかきあらし山
との。
そう言えば落柿舎の中、水戸黄門の撮影クルーの人ばかり。何でもない訪問者は、私以外誰もいなかった。
芭蕉の句碑。
五月雨や色帋へぎたる壁の跡 芭蕉
蕉門第一の高弟・向井去来が嵯峨野に庵を結んだのは、貞享4年(1687)の前だと言われている。芭蕉がその庵を初めて訪れたのは元禄2年(1689)。その後、都合3度訪れている。
元禄4年(1691)には、4月18日から5月4日まで滞留し、その間に『嵯峨日記』を記している。
『嵯峨日記』、岩波文庫で読む。
落柿舎、洛西・嵯峨野とはいえ、京の町中からさほど離れている所ではない。京からさまざまな門弟たちが訪れている。
<今宵は羽紅夫婦をとゞめて、蚊屋一はりに上下五人挙り伏たれば、夜も・・・・・>、とひとつの蚊帳の中に、芭蕉、去来、凡兆、その妻である羽紅尼、それに屋敷守りの男、都合5人の男女が雑魚寝をしている様も描かれている。面白い。
芭蕉は『嵯峨日記』を日記文学として後世に残す、ということを考えていたという。芭蕉、紀行文もそうであるが、自らが記す文章、練りに練る。この17日間の『嵯峨日記』もそう。達人。
句碑に刻まれている <五月雨や色帋へぎたる壁の跡>は、落柿舎を辞する日、5月4日の句である。
左は、虚子の生前最後の自筆句碑。
凡そ天下に去来ほどの小さき墓に詣りけり 虚子
破調吟。
右は、昭憲皇太后の歌碑。
賀茂川のはやせの波のうちこえし
ことばのしらべ世にひびきけり 昭憲皇太后
落柿舎のすぐ横に墓所のある嵯峨天皇の皇女・有智子内親王を称えられた歌。
草の戸やわが名月の山はなれ 可都三
下平可都三、幕末から明治の俳人である。
8世庵主・山鹿栢年の句碑。
足あともはづかし庵のわかれ霜 栢年
俳人塔。
<昭和45年、落柿舎11世庵主の工藤芝蘭子が過去・現在・未来をも含めた俳人供養のために建立された>、と落柿舎の小冊子にある。
300数十年前の元禄期もこのようであったであろう。
帰ろうと思い本庵の前に戻ると、このような光景があった。
黄門さまが座っている。ややお疲れの表情。黄門さまは武田鉄矢のようだ。その内、テレビ放映されるのであろう。
水戸黄門の物語、映画では見たような気がするが、テレビでは見たことがない。人気番組だということは知っているが。武田鉄矢の水戸黄門、ピタリ、フィットするんじゃないか。
落柿舎を出る。