主従二人(須賀川 続き)。

須賀川の等躬の屋敷に着いたその夜、等躬に乞われ曽良を加えた三吟歌仙を巻いた、というところで昨日は終えた。
その後は、こう続く。
この宿の傍に、大きな栗の木があり、その木陰に庵を結び、隠遁生活を送るお坊さんがいる。西行が「橡ひろう」と詠んだ(西行の歌は、「山深み岩にせかるる水ためんかつかつ落るとちひろふほど」、と『菅菰抄』にある)深山もこのようなところだったろうか、とその閑かな様に感じ入り、紙にこのようなことを書きおいた、と芭蕉は記す。
栗という文字は、西の木と書くように、西方浄土に縁があり、行基菩薩は一生、杖にも柱にも栗の木を用いたということだ、と。芭蕉が紙に書いたことはこういうことだ。しかし、こんなこと芭蕉がわざわざ書くことあるのかな、と思った。栗の文字を分解し、西の木だから西方浄土に縁がある、なんて我々凡人がやるようなことじゃないか、と。芭蕉ともあろう人がやるなんて、と。
行基菩薩は、『菅菰抄』にはこうある。泉州、というから今の堺近辺の生まれ。天智7年に生れ天平21年に寂した、というから7〜8世紀の頃、日本仏教の黎明期のお坊さん。大僧正だが、大菩薩と号したようだ。
それもこれも、次に記される句への前振りなんだ。
栗の木も、その木陰に庵を結ぶお坊さんのことも、栗の文字の分解も、行基菩薩も。その句が、これ。
     世の人の見付ぬ花や軒の栗
世の中の人の多くは、あまりパッとしない花だな、と思っている栗の花が、この庵の軒端に咲いている。その庵の主のお坊さんも、世に隠れて住んでいる。何やら奥ゆかしいじゃないか、とでもいう句。
その庵に隠れ住むお坊さん、名を可伸という。曽良の『旅日記』には、4月24日(新暦6月11日、つまり明日)、可伸の庵で歌仙が巻かれていることが書かれている。芭蕉、曽良、等躬、可伸、その他3人、つごう7人による七吟歌仙が。
その模様、『俳諧書留』には、芭蕉の発句以下、初めの4句のみが記されている。
     隠家やめにたたぬ花を軒の栗     翁
     稀に螢のとまる露草         梨斎
     切くづす山の井の井は有ふれて    等躬
     畔づたひする石の棚はし       曽良
芭蕉の句、この日歌仙を巻いた時の「・・・・・軒の栗」の句と、『おくのほそ道』に記す「・・・・・軒の栗」の句、大分異なっている。おそらく芭蕉、この後の数年、練りに練って、「世の人の・・・・・軒の栗」、まで持っていったのであろう。
なお、この日の歌仙、芭蕉の発句の脇、第二句をつけている梨斎という男が、庵に隠れ住む僧、可伸である。
大きな梨の木の木陰に庵を結んでいるので、俳号は梨斎。
芭蕉はしきりに、世に隠れ住む僧とか、奥ゆかしいとか言っているが、こうして俗世間の人間と交わり、俳諧を楽しんでいるところからみると、その隠遁、隠棲、さほどのものでもなかったようにも思える。