高野・熊野・伊勢巡り(3) 奥の院への参道。

高野山、全山が聖域、浄域であるが、聖域中の聖域、浄域中の浄域は二か所。壇上伽藍と奥の院である。
私が泊まった宿坊・赤松院、奥の院への表参道のすぐ近く。まずは、奥の院へ向かう。

一の橋を渡ると、奥の院表参道の入口。

雨の降る中、何人もの人が表参道を通り奥の院を目指す。

奥の院参道のガイドマップ。
左端の赤い丸が一の橋の表参道入口。右端上が奥の院の弘法大師御廟。その間の距離、約2キロ弱。
多くの人が表参道入口から歩いて行ったが、長く歩くのが苦手の私は、その中間点でバスの終点である中の橋までバスで行くつもりである。
雨が降っている。バスが来るまで、すぐ前の一の橋観光案内所で雨宿りをさせてもらう。

案内所には、このようなポスターが貼ってあった。
”変わらぬおもてなし 和歌山”とか、”還りつくところ 心のエステ高野山”、といったものが。

こういうものも。
平成27年というから再来年、高野山は開創1200年となるらしい。

私は、バスの終点である奥の院前・中の橋までバスに乗った。
バスを降りたすぐのところには、このような立札が。読みづらいが、こういうことが記されている。
<虚空盡衆生盡涅槃盡我願盡>、とあり、<この世の迷に苦しむ人びとが全てさとりを得て幸せになるまで、この世に生きとし生けるものを・・・・・、救ってくれる弘法大師のお言葉であります>、とある。
表参道、半分ぐらいは端折ったが、私はここから歩きだす。

時折り、雨脚が強くなる。
が、白衣に金剛杖の人は、雨傘をささないで歩いている。

高野山奥の院の参道には、約20万基の墓や供養塔がある。
時折り、衣をまとい帽子を被った小さな石像が現われる。

このような。
とても可愛い。

雨の中、大きな杉木立の中を奥の院へ向けて歩く。

奥の院の大杉林、このような説明書きがある。

芭蕉の句碑がある。
松尾芭蕉、貞亨5年(1688年)伊賀上野で父の三十三回忌を終えた後、高野山を訪れている。私は、母の十三回忌の後、高野山を訪れた。それはともあれ、芭蕉、その折り、この句を詠む。
     父母の しきりにこひし 雉子の声
この句碑は、文政10年(1827年)に建てられた。句碑の筆は、池大雅の手になるそうだ。

参道には、100を越える大名家の墓や供養塔があるらしい。
その多くは、私が端折った一の橋から中の橋の間にあるが、中の橋を越えても幾つも見うけられる。このように。
手前は、筑前黒田家。その向こうには、伊予松山松平(久松)家墓所。

落ちついた墓所。
豪奢に流れず、心安らぐ。

”結城秀康(家康次男)石廟 重要文化財”、というものがある。
家康の次男である結城秀康と、その母堂の石造りのお廟である。何というもの。

このようなものも。
”奥の院”へ。

宝井其角の句碑。
     卵塔の 鳥居やげにも 神無月
という句だそうだ。
芭蕉の句とは、随分趣きを異にしている。

浅野内匠頭墓所。
左の石柱には、こう記されている。
<古今忠鑑 赤穂四十七士菩提碑處>、と。”忠鑑”なる言葉知らなかったが、”忠なる鑑”なんだな。なるほど。

また、赤い前垂れをつけ、帽子を被った小さな石像が現われる。
とても面白い。

その内、こういう所へ出た。
奥の院、弘法大師御廟の近くまで来た。その手前の御供所であるようだ。
いよいよ奥の院の核心部へ入る。