伊東マンショの肖像。

今日、ヴァチカンではマザー・テレサが聖人に列せられた。
日本人で聖人に列せられたのは、1597年豊臣秀吉により長崎で磔の刑となった二十六聖人。
日本にキリスト教がもたらされたのは、1549年。フランシスコ・ザビエルによること学校で教わった。戦国時代、その布教、初めは大目に見られていた。
一般庶民ばかりでなく、キリシタン大名も次々と現れる。
大友宗麟、有馬晴信、大村純忠、小西行長、高山右近、・・・、と。
ところで、岩佐又兵衛が洛中洛外図屏風を描いた2年前の1612年、長崎で伊東マンショが死んでいる。
伊東マンショ、キリシタン大名・大友宗麟の名代としてローマへ派遣された天正遣欧少年使節の代表。1582年、長崎を出発、ヨーロッパ各地で大歓迎を受け、1590年帰国した。13、4歳の少年が、その十代のすべての時を使って。
伊東マンショ、帰国した翌1591年、聚楽第で豊臣秀吉に謁見している。秀吉、1587年にバテレン追放令を出しているのだが、どういうことか。
その伊東マンショの肖像画がイタリアで発見された。
今年は、日伊国交樹立150周年の年。それを記念し、その伊東マンショの肖像画、東博へ来た。

東博本館、正面大階段を背景とした垂れ幕・バナー。

世界初公開、とある。

本館7室。
小規模展示。

≪伊東マンショの肖像≫、ドメニコ・ティントレット筆。
ドメニコ・ティントレット、あのティントレットの息子である。ティントレット工房の実力者であったらしい。
カンバスに油彩。1585年の作。ということは、伊東マンショ、16歳。ヴェネツィアで描かれている。

《伊東マンショの肖像》のX線透過写真。

極東の小さな島のキリシタンを代表して、ヴァチカンはじめヨーロッパのキリスト教の聖地を訪ね歩き、長崎出港後3年、ヴェネツィアで大歓迎を受けた16歳の伊東マンショ。

その肖像画の裏面には、このような文字が書かれている。
右側の訳文、小さく読みづらいので記すと・・・
<ドン・マンショは日向国王の孫/甥で、豊後国王フランチェスコより教皇聖下への大使 1585>、と記されている。
なお、豊後国王のフランチェスコとは、大友宗麟のクリスチャンネーム。

左右共、≪三聖人像≫。
左は模写であるが、左右共東博所蔵の重文である。
右は、麻製カンバスに油彩。左は、木綿製カンバスに着色。共に16〜17世紀。右はヨーロッパで描かれたものに対し、左は日本での模写。セミナリオで西洋絵画技法を学んだ日本人による模写。
<キリスト教禁制前の日本では、ルネサンス期の絵画技法が学ばれていたのです>、と東博のパンフにある。

天正遣欧少年使節の行程図。
読めるといいのだが。読めなくとも、足かけ9年に亘る16世紀末の少年使節の足取り、今、考えるだにワクワクする。ジジイであっても血がたぎる。

1585年、イタリア、レッジオ刊行の『天正遣欧使節記』。活字本である。
東博所蔵の重文。

その一部を拡大した展示があった。
なるほど。イエズス会宣教師、日本の国情をつぶさに報告しているんだ。
宗教団体が布教先のことごとを調べ国元へ報告するのは、何もキリスト教に限ったことではない。あらゆる宗教が行っている。
奈良県の天理市に天理参考館という施設がある。天理大学付属の博物館である。ずーと気になっていた天理参考館へ暫らく前に観に行った。
天理大学、その母体は天理教である。その天理教、世界各地へ布教のための人材を派遣する。その人たちが布教先の国々の情勢、状況はもとより、その地の産品、美術品などを天理へ送ってくる。それが故に、天理大学付属の天理参考館、とてもユニークな博物館となっているんだ。面白い。

≪聖母像(親指のマリア)≫。
銅版に油彩。イタリア、17世紀後期。長崎奉行所旧蔵、東博所蔵。
天地左右20センチ前後という小さな作品である。
東博で以前にも観たことがある。とても美しい。
江戸時代、キリスト教禁制下に、イタリア人宣教師が携行したものである。
1708年、屋久島で捕らえられたそのイタリア人宣教師を尋問したのは新井白石だそうだ。新井白石とそのイタリア人宣教師の間に何らかの、ということもありやなしやであるが、それはともあれ、この小さな聖母像、とても美しい。