400年前の伊達男。

安土桃山から江戸時代の初めにかけては、案外日本とヨーロッパの交流が深かった。キリスト教がまだ迫害を受けていなかったからだ。
天正10年(1582年)には、九州のキリシタン大名・大友宗麟、大村純忠、有馬晴信の名代として、4人の少年がローマへ旅立っている。「天正遣欧少年使節」である。
その30年後、慶長18年(1613年)、今の石巻の月ノ浦からサン・ファン・バウティスタ号というガレオン船が、太平洋へ向け船出する。
最終目的地は、エスパーニャ(スペイン)、そしてローマ。目的は、ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)との交易交渉。で、その本国のエスパーニャへ。そして、ヨーロッパの心・ローマ法皇との謁見。「慶長遣欧使節」である。
正使はフランシスコ会宣教師であるルイス・ソテロ、副使は支倉常長。派遣を命じたのは、支倉常長の主君である東北の雄・伊達正宗。
伊達正宗、北の地から、織田、豊臣、徳川の動きを目を凝らして見つめていた。で、海外との交易に目をつけた。まずはヌエバ・エスパーニャと、と。
天下取り、軍事力ばかりじゃなく経済力の裏付けが、ということ、何時の時代でも変わらない。

2月末の東博構内。
「支倉常長像と南蛮美術」展のタテカン。”400年前の日欧交流”、とサブにある。”伊達男、ローマを行く”、とも。

本館大階段の垂れ幕。

400年前、支倉常長、二つの大洋を渡ってヨーロッパへ行ったんだ。
月ノ浦から太平洋を横切りヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)のアカプルコへ。その後、メキシコシティーを経て大西洋岸のベラクルスへ。大西洋を渡り、エスパーニャのセビリアへ。そこからマドリード。エスパーニャ国王・フェリペ3世に謁見している。
支倉常長、マドリードで洗礼を受け、キリシタンとなる。その後、陸路ローマへ。
支倉常長、ローマ教皇・パウロ5世に謁見する。
盛大な「ローマ入市式」が執り行われたそうである。

ローマでの支倉常長の世話役は、教皇に繋がるボルゲーゼ枢機卿。ボルゲーゼ枢機卿、アルキータ・リッチに命じ、この絵を描かせた。
ローマ教皇・パウロ5世に謁見した時の支倉常長の姿である。原寸大で描かれている。だから、大きい。
鼻下に髭をたくわえた支倉常長、金糸銀糸の艶やかな衣装を身にまとっている。日本を出る時、伊達正宗から下賜されたものだそうだ。

安土桃山期、多くの南蛮人が日本へも来ていた。
≪南蛮人渡来図屏風≫、六曲一双の左隻。
安土桃山時代、16世紀。紙本金地着色。
重文である。

その右隻。

≪世界図屏風≫。
世界及び日本図屏風のうちの一隻。安土桃山〜江戸時代、16、17世紀。
これも重文。
世界の中心は、ポルトガルやエスパーニャといった旧世界・ヨーロッパ。その他の地は、ヌエバ・新世界であった。

支倉常長、日本を出て7年後の元和6年(1620年)、日本へ戻ってくる。
交易交渉は上手くいかなかった。さらにその時の日本、キリシタンはご法度、弾圧されていた。その2年後、支倉常長、寂しく死ぬ。
しかし、その何年か前のヨーロッパでの支倉常長は元気いっぱいであった。日本の伊達男ここにあり、といったような。
伊達正宗の臣下であるから”伊達男”である。
少し長くなるが、あとひとつつけ加える。腰の大小などについて。
<腰には鮫皮の脇差と、伊達家の紋である「九曜紋」の鍔をつけた刀を差しています。薄模様の小袖と袴は金銀糸などで飾られ、その上に羽織る胴服には、鹿や孔雀の羽のようなものを中心に、襟から袖口にかけては・・・・・、まさに「伊達男}と呼ぶにふさわしいいでたちです>、とパンフにある。
まさに、400年前の伊達男。ダテ男、ダテモンでもある。