吉備の国アート巡り(2) 大橋家住宅。

日本人に最も読まれている紀行、謂わば国民的紀行は、松尾芭蕉の『奥の細道』と司馬遼太郎の『街道をゆく』ではなかろうか。
その司馬遼太郎の『街道をゆく』の連載が「週刊朝日」で始まったのは、1971年(昭和46年)であるが、その3年前の1968年(昭和43年)、シバリョウは「文藝春秋」に『歴史を紀行する』を書く。『街道をゆく』の先駆けとなる紀行である。
高知、会津若松から始まる1年の紀行中、岡山をも訪ねている。「桃太郎の末裔たちの国」として。
<しかし代官はじかに町政にさわることがなく、富裕商人の合議による自治がおこなわれているあたりからのふんいきは堺とほぼかわらない。備前路から倉敷の町に入ると、Tさんの感慨のようにたれしもがここに小公国が息づいているという感じなのである。・・・・・>。
司馬遼太郎、倉敷は堺のような富裕商人の合議による小公国である、と記している。
その富裕商人たちの大きな邸宅、今も残っている。大原美術館で知られる大原家住宅、国の重文となっている井上家住宅、そして、やはり重文である大橋家住宅。
大原美術館への途次、大橋家の住宅を訪ねる。

先に見えるのが大橋家住宅。

国の重文である。

通りに面した長屋門を入ると、正面に主屋が見える。

右手には、塗屋造の米蔵がある。

米蔵の中に入る。
調度品や絵や写真などが展示してある。右端に見えるのは、大橋家6代・大橋直諒の肖像画。高橋由一が描いたもの、と説明書きにある。高橋由一に描かせていたのか、倉敷の大地主は。

このような写真もある。
右は、<大正3年(1914年)ごろ大橋家で使用していた自家用車>、とのキャプションがある。大正の初めにはこのような自家用車を持っていたんだ。

蔵を出て、主屋に向かって左側はこのよう。

ここをくぐり主屋へ入る。

土間。
昭和の初めごろまでは、米俵を台形状に300俵積んでいたそうだ。

台所。
大きなお釜が並んでいる。

裏へ出る。

振りかえる。
井戸がある。

主屋の屋根。
倉敷窓になまこ壁。

平瓦と丸瓦を交互に用いてふいた屋根。
耐熱性に強いそうだが、何より絵になる。

主屋の横を見る。

石積みになまこ壁、美しい。

主屋の中へ戻る。

主屋へ上がる。
大座敷、小座敷、中の間、居間、新座敷、納戸、書斎、・・・・・、多くの部屋がある。

向こうの方には、雛飾りが見える。

こういう小さな庭が幾つもある。

ここにも坪庭が。
後で係の人に訊いたら、幾つかの坪庭は風通しをよくするためのものとのことであった。

そろばんがある。店の間である。
大橋家、大地主であるが、金融業も行っていたという。そうであろう。

入口の長屋門の内には、大橋家の配置図なるものがあった。

重文の指定書も。


死者48人、不明者2人、負傷者千数百人、そして避難所へ避難している人8万人。さらに、今なお続く数多くの大きな余震。
このような九州の状況の中、あちこちへフラフラしていることをノーテンキに記すことなど、果たしてどうか、との思いはある。が、ボランティアに行ける体力などまったくない後期高齢者、ただ見守るより他ない。ささやかな振替を送るのみ。で、ノーテンキな雑ブログ続けることとする。
ところで、さまざまな人がボランティアで熊本へ入っている。中で、コロッケには感銘を受けた。
コロッケ、多くの人とのツーショットに応じている。そのすべてにコロッケ、眼をむき口をひん曲げるあのコロッケのポーズを取っていた。次から次へ、熊本での被災者すべての人とのツーショットに。
これには唸った。
コロッケのボランティア、凡百のものじゃない。