FOUJITA。

山口小夜子からおかっぱ頭続きで、おかっぱ頭の先達・藤田嗣治へ即、と考えていたのだが、風呂でスウー、フラーとなり暫らく動けなくなって以来、ここ数日やはり何かヘン。雑ブログと言えど、手をつけられなかった。
研究論文を書いているワケじゃなく、潜在需要を掘り起こす広告コピーを書いているワケでもない。ただ、その時思いついたことを書いているにすぎない。それでも「じゃあ、書こうか」、という程度の思いは必要である。そのささやかな思いの後押し、ここ暫らく途切れていたが、アートがらみの映画、さしあたりこの小栗康平の『FOUJITA』までは触れておきたい、と。

小栗康平、自らの作品を創った。
小栗康平、映画監督であるから自らの作品・映画を創る、作るのは当然である。が、この『FOUJITA
』で小栗康平はどうも絵を描いた。自ら描きたかった絵を。明暗はどう、彩度はどうこうなんてことを考えて。

『FOUJITA』、監督・脚本:小栗康平。
小栗康平、藤田嗣治の伝記映画を作りたかったワケじゃない。フジタじゃなく自ら、オグリの絵を描きたかったようだ。

1913年、藤田嗣治渡仏し、パリ、モンパルナスへ。
モディリアニ、スーティン、キスリング、パスキン、ピカソ、バンドンゲン、・・・・・、あちこちからパリへ集まってきていた今ではビッグネームとなっている絵描き連中とまじわる。エコール・ド・パリである。
それにしてもオダギリジョーのおかっぱ頭、藤田嗣治にそっくりだ。

パリでの藤田嗣治、時代の寵児となっていく。FOUFOU(フーフー)と呼ばれ。FOUFOU、お調子者という意だが、藤田、そんなことは気にしない。連夜の宴、パリ女にももてる。
日本での妻とは別れ、パリで結婚した2番目の妻とも別れ、3番目の”ユキ”と名付けた女とも別れ、4番目の妻・マドレーヌと、という具合に。
なお、左の女はアメリカからパリへ来たマン・レイと結婚したモンパルナスのミューズ・キキ。

≪寝室の裸婦キキ≫、1922年の作。
世界各地からパリへ来ていたエコール・ド・パリの連中、皆びっくりしたらしい。

≪5人の裸婦≫。やはり1922年の作。
乳白色の肌。面相筆による描線。藤田嗣治の独自な世界。藤田嗣治、世界のフジタとなる。

小栗康平、説明をしない。
藤田嗣治という絵描きはどういう男であったかとか、時代はどうであったかとか、といったことにはさほど触れない。解る人には解るってことでよし、と思っているのかな、と思うこともある。
映画半ばで、パリから突然このような場面に切り替わる。
藤田嗣治、日本へ帰っている。何人かのパリの女とは別れ、5番目の妻である君代と暮らしている。第二次世界大戦が始まる。
戦争画、また、戦争協力画と言われる絵画作品がある。その代表作がこれである。

藤田嗣治≪アッツ島玉砕≫、1943年の作。
藤田嗣治、西洋絵画の技法を克明に使い精緻に描いている。
藤田嗣治は、絵で国に貢献できる、絵が力になる、と思ったであろう。そうに違いない。

藤田嗣治、”国民総力決戦美術展”の会場で、絵を観に来た人に敬礼をする。
藤田嗣治の心に迷いはなかった、と思う。自分の絵がお国のためになっている、と。
しかし、日本は敗れた。日本敗戦後、藤田嗣治は戦争に対する協力者として糾弾される。
1949年、藤田嗣治は日本を去り、パリへ。
1955年、フランス国籍を取得、1959年、カトリックに改宗、レオナール・フジタとなる。藤田嗣治、その後二度と日本の地を踏むことはなかった。
小栗康平の作品、そのエンディングは、ランスでのノートルダム・ド・ラペ、シャペル・フジタ、フジタ礼拝堂の映像であった。
フジタを思う。パリを想う。
今からだと6年近く前になる2010年1月の『芸術新潮』、創刊60周年記念特大号として「わたしが選ぶ日本遺産」を特集していた。今、気鋭の美術評論家であろう椹木野衣が「日本遺産」として挙げたのは藤田嗣治や宮本三郎の戦争画。
それにしても戦争画、日本における芸術ということを考える時、そこに立ち塞がるもののひとつ。
どうする?