没後50年 藤田嗣治展。

80年を超える人生の半分以上をフランスで過した藤田嗣治。今年はその没後50年であるそうだ。

東京都美術館のいつものあの窓。
ともかくボウとしか撮ることができない。

館内の柱に貼られたポスター。
藤田嗣治、戦争中いわゆる戦争画を描いている。宮本三郎、小磯良平などと共に。戦後、そのことを糾弾された。軍部への協力だと。
1949年3月、藤田嗣治は日本を離れる。その後1968年に死ぬまで、藤田嗣治が日本に帰ることはなかった。日本国籍も捨てフランスへ帰化した。Leonard Foujitaとなった。
このポスターの≪カフェ≫は、1949年日本を離れた後パリへ渡る前、ニューヨークで描いた作品。思い描くパリのカフェの模様。今、ポンピドゥー・センターにある。

≪二人の少女≫。1918年、油彩、カンヴァス。
藤田嗣治、1913年に最初の渡仏。エコールド・パリの時代である。モディリアニ、スーティン、パスキンたち、また、ピカソやシャガールなどとも交わる。
考えてみれば、藤田嗣治という絵描きは凄い絵描きなんだ。モディリアニやピカソ、その他数多くの世界美術史上のビッグネームの仲間、お友達なんだから。その後も、藤田嗣治ほどのビッグアーティストはいない。今、草間彌生が「世界のクサマ」と言われているが、それはそれであるとしても、その立ち位置はまったく違う。

≪エミリー・クレイン・シャドボーンの肖像≫。1922年、油彩、銀箔、カンヴァス。
背景に銀箔を用いている。さらにその色づかい、どこまでも深い。

≪五人の裸婦≫。1923年、油彩、カンヴァス。
パリを熱狂させた「乳白色の肌」である。さらに面相筆による輪郭線。藤田嗣治はパリ画檀の寵児となっていく。
なお、「乳白色の肌」の正体は、今では明かされている。タルク、シッカロールである。
それにしても、シッカロールにしても、油絵具の筆に面相筆を加えるにしても、藤田嗣治、頭の切れる男である。

≪自画像≫。1929年、油彩、カンヴァス。
おかっぱ頭、丸い眼鏡、ちょび髭、ピアス、これぞ藤田嗣治という自画像である。
面相筆の出番も作り。

≪争闘「猫」≫。1940年、油彩、カンヴァス。
14匹の猫が描かれている。渦を巻くように。

≪アッツ島玉砕≫。1943年、油彩、カンヴァス。
いわゆる戦争画、戦後アメリカに接収されたが、その後「無期限貸与」として帰ってきた。今、東京国立近代美術館にある。
上の写真は2014年3月、工藤哲巳展の折り、近代美術館の常設展示にあったものを複写した。だから、モアレが生じているが。それはともあれ・・・
さまざまな専門家、この藤田嗣治の≪アッツ島玉砕≫は戦争に加担するものではない。むしろその逆である、と言っている。私もそう思う。アッツ島の日本兵、そのすべてが玉砕していく様を描いたこの作品、戦争の惨さを描いているもの。
しかし戦後、藤田嗣治は糾弾された。で、藤田嗣治は日本を捨てた。フランスへ行きフランス人となり、レオナール・フジタとなった。最後はキリスト教徒として、マリアの下部となった自らを描いている。

ネコも藤田嗣治には欠かせない。

たしか出口付近に、「フジタ画伯とねこ@しりあがり寿」というこのスタンディーがあった。さすがしりあがり寿、よく似ている。


横審、今日、稀勢の里に「激励」決議を出したそうだ。
異例の処置である。「注意」、「引退勧告」に繋がるものである。稀勢の里には甘かった横審も、ついに動いた。