三陸沿岸紀行(2) 蕪島。

翌朝9時半ホテルロビーに集合、八戸近くの海の景勝地へ向かう。
まずは、ウミネコの繁殖地・蕪島へ。

海岸沿いに走っているな、と思っていると、すぐこのような所に。蕪島が近いんだ。

右上に見えてきたのが蕪島。

蕪島。

あちこちにウミネコが。

3、40段の階段を上がる。
上がった所に蕪嶋神社。

手すりの上にはウミネコが。

鳥って近くで見ると怖い。
ウミネコも然り。

このような看板がある。

日傘ってことじゃない。
ウミネコのフンから身を守るための傘なんだ。

蕪島、周りはゴツゴツとした黒っぽい岩が取り囲む。

蕪島、岩山なんだ。

目の先、向こうは八戸港。

ウミネコのフンの中に佇み思索する大城将保。

降りる。

階段を降りきる少し手前にこれがあった。
4年半前の大震災時の津波、ここまで来た。5.3メートルまで浸水した、と。
2011年3月11日に発生した東日本大震災での津波は、はたしてどの程度のものであったのか、東北地方の太平洋沿岸のすべての地での詳細を記した地図がある。
原口強・岩松暉著『東日本大震災 津波詳細地図 上巻 青森・岩手・宮城』(2011年10月、古今書院刊)。
左手は八戸市街の方。蕪島は右上方。
これでは蕪島の浸水高2.6mとなっているのだが。
八戸市街の方は、4.6mとか、1.95mとか、6.2mとかまちまち。しかし、4年半前、大震災の翌日あたりに流された映像、八戸の模様も凄まじいものであった。



青木が死んで19年となる。
青木、学生時代の同学年のサークル仲間。才能豊かな男であった。が、19年前の8月14日、酔って階段から落ち死んだ。この時季毎年、残った同学年のサークル仲間、久木と高尾の東京霊園へ行っている。
が、今年は様相を異にした。
東京霊園へ行く前に、青木の家へ行った。青木の家、お寺さんである。青木の妹さんご夫婦が継いでおられる。小さなお寺、地蔵院。

お線香をあげ手を合わせる久木。
久木、私のブログにはしばしば出てくる「どうぶつ社」の久木亮一である。40年近くに亘り、動物を含む生物がらみの書を200点以上世に問うてきた久木である。
19年前に死んだ青木も、今に語られるユニークな路線を創った出版人であった。桐嶋洋子、西村玲子、クニエダヤスエ、三宅菊子、熊井明子、独自の女性路線を築いた。「じゃこめてい出版」である。
じゃこめてい出版、今でもある。が、経営主体はまったく変わっている。青木が関わったじゃこめてい出版は、20年近く前までの20数年間。
それにしても、才能のあるヤツほど早く死んじゃうって、ホントだな。

右手には大きな涅槃図が懸っている。
青木の妹さんが、兄貴の供養のために描いたものである。
妹さんこう語る。「時間を見つけ見つけ、1年ほどかけて描いたものです」、と。

地蔵院の玄関を入った正面には、この絵がかかっていた。やはり、青木の妹さんの作品。
この色調、とても心が平かになる色調である。幸せ、いつお迎えがきても幸せ、という色調。

随分ご馳走になった。
今朝、庭で取れたキュウリやナス。青木の故郷・会津の料理。ビールから会津の酒となったので、申しわけなきことながら、〆の上等なお蕎麦、多くを残してしまった。
東京霊園へ行くため、外へ出たら雨。
今日は、雨が降ったりやんだり、という天気であったようだ。

地蔵院の今の住職である妹さん夫婦に送ってもらい、東京霊園へ。
今年は、久木と私の他にじゃこめてい出版がらみの女性が二人。
毎年、般若心経を唱えている。訥々と。
しかし、今年は地蔵院の現住職が般若心経を唱えた。私たちは、その後を追った。
般若波羅密多心経。