三陸沿岸紀行(5) JR八戸線。

4時すぎのJR八戸線で久慈へ行くつもりでいた。しかし、その電車は超満員。おそらく多くの方々は、三社大祭の本八戸で降りるものと思われる。が、そのあまりの熱気に気圧され、1本後の電車にする。

八戸発17時19分の電車に乗る。

暫らくすると、その日の朝バスで訪れた蕪島が見えてくる。

このようなところが車窓を走る。

陸中八木、八木港の突堤の先。
2011年3月11日、八木港での津波の遡上高は9.57m。港外では、11.87m、14.11mという所も。

このような所も。

陸中八木と陸中中野の間、有家の近辺であったろうか。

海岸に車が見えた。

6時半すぎ、サーファーが帰り仕度をしていた。

いずれもあの日、10メートルから10数メートルの津波に襲われた。

有家と陸中中野の間にあった小さな漁港。
あの日の津波の遡上、湾内は11.05mだが、近辺の沿岸には、14.47m、15.24mの津波が襲っていた。

その数値の根拠は、これである。先日記した書。
原口強・岩松睴著『東日本大震災 津波詳細地図 上巻 青森・岩手・宮城』(古今書院、2011年10月刊)。
週に一度ほど図書館へ行っている。時に思いがけない書にいきあたる。これも。

19時20分、久慈に着いた。
上野から八戸までとさほど変わらない時間がかかる。10人ほども降りたろうか。久慈、JRの終点である。行き止まりの線路を跨ぎ、改札へ向かう。
このようなものが迎えてくれる。

<よぐ来てけさったなす>。

<いんや〜ほにほに 遠いどご 良く来てけさったなす>。
温い。温かい。あったかい。

<ようこそ久慈市へ!>。
これは標準語か。

暗くなった駅前には、まったく人の気配がない。
タクシーが4、5台停まっているが、乗る人などいるのかな、というありさま。
それよりも、私は困った。
駅のすぐ近くというホテル、駅前の案内板には出ていない。駅員に訊いても知らない、という。電話をかけたら、迎えにいきます、とのこと。迎えに来た男、「ウチは、50何年もやってるんです」、という。そうであろう。すぐに着いた宿・ホテルみちのく、部屋には洗面所もトイレも風呂も何もない。古くからの駅前旅館であった。
実はこの日、土曜ということもあってか、じゃらんはじめネットでは宿が取れなかった。で、宿へ直接電話して取った宿である。
念のためと思って、夕食を頼んでおいたのは正解であった。8時前ではあるが、開いている店など、おそらくない。
食堂へ行くと、残っているのは私ひとりの模様。
どうしてこれほど、というぐらいに料理が出てくる。三陸沿岸お決まりのウニと刺身、その他いっぱい。ご飯にまでウニが焚きこまれていた。盛大に残すには、「私は胃を切って・・・」、と言わざるを得なかった。

八戸から久慈へ来た。
この後、宮古、釜石、大船渡、気仙沼、石巻、と三陸沿岸の港町を巡り、仙台から帰る。
電車とバスとタクシーを使って。