歌舞伎町で暑気払い。

連日猛暑が続いている。熱中症に注意、との天気予報のお兄さんやお姉さん。
昨日、学生時代のサークル仲間との暑気払い、新宿歌舞伎町であった。
夕刻6時前、約束の時間には少し遅れた。が、夏の6時前、まだ明るい。

新宿区役所通りを進み、風林会館のところを左へ、すぐ前の小路を入る。

このすぐ左の赤褐色の階段を上がれば、昨日の暑気払いの会場である。
が、その2軒ばかり先、7、8メートル先、斜めに階段が見える。

この階段である。
この階段を上がってすぐ右手にドアがある。ドアの中は、小さな飲み屋「バー かくれんぼ」。カウンターのみ10人も入れたろうか。思いは深い。
1970年前後、今から45年ほど前、鈴木清順は日活社長・堀久作の逆鱗に触れ、日活をクビとなる。以後10年ほど、完全に映画界から干される。で、清順の奥さん、ここで「バー かくれんぼ」を始める。
「バー かくれんぼ」とのつき合い、どういうことからであったか。
当時、私はやや変則な人生を送っていた。
大学へ入る前、大学の途中での再発、結核療養所へ都合3年近く入っていた。親父が死に、食うための仕事もしていた。結局、大学を卒業したのは28の時。ごく一部をのぞき、学生時代の連中とのつき合いはなくなっていた。
結核療養所に入っていた頃、私より10ばかり年上の男がいた。板前で苦み走った男。まさに、「包丁一本、さらしに巻いて・・・」を思わせる男であった。やけに本を読む男であった。この男が、私のことを可愛がってくれた。結核療養所を出た後、新宿の夜の世界へ誘ってくれた。
「バー かくれんぼ」も、最初はこの男に連れられて、ということであったのではないか。ゴールデン街の幾つかの店とともに。
「かくれんぼ」には、芝居関係の人たちが多く来ていた。物書きも。それらの人たちの中で、天野哲夫が来ていたんだ、ということを後年聞いた。
天野哲夫、あの『家畜人ヤプー』の作者・沼正三である。会った覚えはない。第一、天野哲夫の顔も知らないのであるから、会ったかどうかなんて全く分からない。しかし、沼正三が来ていたらしい。「バー かくれんぼ」には。
思いは、4、50年前に遡る。

上を見ると、電線が絡み合っている。
昔のままだ。

皆はもう来ている。この階段の上に。
上がろう。

始まっている。

紹興酒とジンロが多かったか。

この店、経営者は大蓮出身の人らしい。その息子世代の人もいる。そのお嫁さんも。
そのお嫁さん、日本語を話すが、やはり中国人である。インテレクチュアルな俤を宿す美人。
上智の学生でもある、と高橋は言う。
後ろに坊主頭の高橋が写っている。
昨日の暑気払いの幹事の高橋、デザイン会社のオーナーであるが、新宿の夜の世界にも詳しい。自身で、和服のママや黒服のいる店を経営したこともある。ご馳走になった。

昨日集まった学生時代のサークル仲間は10人。
転んで骨折し、全身麻酔で云々、とか、腰がどうとかで云々とか、食べることが難しくて云々とか、暑い中外へ出るのが云々とか、4、5人が参加できなかった。
ぶれているが、集まったのはこの10人。

9時前、お開きとなる。
階段下に、この店「叙楽苑」の若主人がいる。

皆が階段を下りてくる。

下りてきた階段を振り返る。
味があるよなー。昭和の味が。

6時前に入ったが、もう9時前、外はすっかり暗くなっている。
歌舞伎町の裏小路、向うの方へ抜けよう。

向こうの方へ。
先の方は明るい。

旧コマ、ゴジラの方へ向かう。

ゴジラがいた。
4月末以来、3か月ぶりである。

靖国通りからゴジラを振り返る。
平成26年7月28日の歌舞伎町。


少し留守にします。
ブログも暫らく休みます。