キネマ旬報95年(続き)。

「キネマ旬報}が創刊されたのは、1919年だそうである。だから、昨年創刊95周年を迎えた。
昨年秋から今年初めにかけ、柏のキネマ旬報シアターでは、それを記念した「キネマ旬報」の表紙展を開いていた。「キネマ旬報」の表紙、多くはその折々のスターの写真で飾られる。

”キネマ旬報95年の歴史を辿る”表紙展。
<10〜30点程度>と記されているが、実際には1階ロビーと2階のスペースを合わせ、約50点の表紙が展示された。
その時代時代、その折々、多くの人は、その越し方と重ね合わせたのじゃないか。
その幾つかを。

「キネマ旬報」、上下旬、月2回刊である。
1951年8月下旬刊の表紙・ヴィヴィアン・リイ。
”アンナ・カレニナ”となっているが、多くの人にとっては『風と共に去りぬ』のヴィヴィアン・リイ。
誌名の英文表記、”MOTION PICTURE TIMES”となっている。
何よりも、ヴィヴィアン・リイの顔、写真ではない。手描きなんだ。1951年、第二次世界大戦の6年後である。

1953年7月上旬号。表紙はマリリン・モンロー。
モンローの顔の左の方に、こう記されている。
<シナリオ 東京物語 小津安二郎作品>、と。
現在、世界の映画作家がこぞって「素晴らしい」の声を挙げ、世界中の映画ファンが酔いしれる小津安二郎の『東京物語』は、この年、1953年の作品である。
小津の『東京物語』、趣き深い映画である。素晴らしい映画である。でも、”世界の”、という言われ方をされると、そこまでは踏み切れない。

1955年4月下旬号のグレース・ケリー。

1964年11月上旬号。
”復刊15周年記念第3号”とも記されている。表紙はオードリー・ヘップバーン。
この頃には、英文表記は”MOVIE, TV & SHOW TIMES”、となっている。TVの時代となったんだ。

1967年8月上旬号。
表紙は、カトリーヌ・ドヌーブ。

同じ1967年、9月上旬号のジェーン・フォンダ。
私は、ドヌーブよりは、ジェーン・フォンダやフェイ・ダナウェイが好きだった。

1969年5月上旬号のアラン・ドロン。
アラン・ドロン、二枚目の代名詞であった。
学生時代、私の1年上の先輩にもアラン・ドロンがいた。本家本元のアラン・ドロンにも引けをとらない二枚目、美男子であった。

1969年1月下旬号。
アメリカン・タフガイ、スティーブ・マックィーン。

2階へ上がる。
こういうパネルが目に入る。

”表紙でふりかえる「キネマ旬報」。
95年の歴史展だ。

先を見ればこう・・・。
キネ旬の歴史が・・・。

リンゴ・スター、チャップリン、ブルース・リー。下の方には、キング・コングやジョーズもいる。

1972年8月下旬号。
『キャバレー』のライザ・ミネリ。ライザ・ミネリの歌声、パワフルなんてものじゃなかった。

1974年11月上旬号。
『エマニエル夫人』のシルビア・クリステル。主題歌のアンニュイな響き、今も耳に残る。

1978年6月上旬号。
『サタデー・ナイト・フィーバー』のジョン・トラボルタ。
決まってるねトラボルタ。

一気に走る、21世紀へ。
2003年11月上旬号。クエンティン・タランティーノだ。『キル・ビル』で見参。
タランティーノの日本への初見参は、この10年ほど前、『パルプ・フィクション』。
ぶっ飛ばされた。

柏のキネマ旬報シアターには、図書コーナーもある。
キネ旬のバックナンバーも並んでいる。古そうなところから一冊引き出す。
1951年6月下旬号。
表紙を飾るのはエリザベス・テイラー。写真じゃなく手描き。
表4には、こういう表記もあった。
定価80円、地方定価83円、との。地方へは、運送料が上乗せされていたものと思われる。
日本、敗戦からまだ6年後である。今思えば、「ほー」ということさまざまにある。
キネ旬の表紙に、その折々の様を思う。