キネマ旬報95年(続き×2)。

柏、キネマ旬報シアターの2階。キネ旬の古い表紙に混じり、このような紙片が貼ってあった。

ごく大まかなキネ旬の歩み。
キネ旬、東工大の学生たちが始めたんだ。
1940年から1950年の復刊まで、ほぼ10年に及ぶブランクがある。外国映画の紹介を続けてきた「キネマ旬報」、追いこまれたであろう。
そのことは、<1940年 戦時統制を理由に終刊>、という文言に表われている。
通常、定期刊行物の発行が厳しくなり続けられなくなった時には、「休刊」という表現を用いることが多い。今は、打ち切るが、今後好転すればまた、という意をこめて。
しかし、1940年の「キネマ旬報」には、そのような選択肢はなかったものと思える。「終刊やむなし」、という状況だったんだ。戦争へ突き進むという状況下、欧米の映画など如何様にも統制の網はかかろう。。

1919年発行のキネ旬創刊号が復刻されている。

キネ旬2階にこのパネル。
創刊時のキネ旬、4ページ建て。

キネ旬創刊号の表1と表4。
終面である4面(右側)は、海外通信。

中面である2ページ目(右)と3ページ目(左)。
2ページには、<フォックス会社の花形及文藝写真「サローメ」>、という紹介記事。花形役者と新作紹介である。
3ページは、「優秀映画批評」。『ターザン』前篇、後篇、『生恋死恋』(凄いタイトルだな)、『アッティーラ』(西部劇じゃないかな)、『ロミオとジュリエット』(今に繋がる定番だな)。
なお、2、3面のノドには、<定価一部 金5銭、送料 金2銭>との文字も見てとれる。

「キネマ旬報」創刊号の1面のみを拡大してみよう。
左上に1919年7月11日とあり、右上に第1号とある。
「キネマ旬報」、英語表記は”THE MOVIE TIMES”。
その下、創刊号の巻頭を飾る女優はこの二人。
左は、マルガリータ・フィッシャー嬢 アメリカン映画、右は、ドロシー・ギッシュ嬢 パラマウント映画。創刊号のトップを飾るこのお二人、当時のトップスターであったのであろう。
下段に、「御あいさつ」と記されている囲み記事がある。
キネ旬を立ちあげた4人の読者への挨拶である。
<私共は活動写真が並はずれ好きなのであります。・・・・・。要するに今の私共は・・・。いつかは此方でひっぱるようにも成りたいとも思って居ります。・・・・・。・・・成ろう事ならやっぱり此の「キネマ旬報」が澤山賣れる様になればよいと願って居ります>、との。
若者らしい率直な言葉である。
キネ旬創刊号の一面、面白い。

昨年末、高倉健と菅原文太が相次いで世を去った。
柏キネ旬シアターの図書コーナーには、この春先までこのような展示があった。

健さんと文太兄いへの追悼展示である。どうぞご自由に手にとってください、と。

<高倉健 「知られざる素顔」と「男の美学」秘話>。2014年12月2日、 日刊大衆の記事。
よく知られた健さん像だ。

<訃報:菅原文太さん 81歳=俳優、「仁義なき戦い」>。2014年12月1日、毎日新聞の記事。
菅原文太が11月1日、沖縄知事選で翁長雄志の応援演説をしたことにも触れている。
健さんと文太兄い、その存在は大きかった。役者の範疇を超えていた。
2人の先人に関しては、私はこういう思いを持っている。多くの皆さまが言うこととは別のことではあるが、面白いな、と思っていること。
今年の「キネマ旬報 1月下旬号」は、高倉健の特集である。「職業、映画俳優」。
そこに、「再録 健さんの肉声」、という記事がある。「キネマ旬報 1975年5月上旬号」に掲載された「高倉健は、いま何を考えているのか?」、という記事を再録したものである。聞き手は、脚本家の高田純。「高倉健、もう一つの世界」、という小見出しもある。
話しているうちに、話が映画の世界から離れていく。女郎屋通いの話になっていくんだ。高倉健、いわゆるよく知られた健さんのイメージとは異なることを話す。
高田 「昭和33年3月31日、売春禁止法施行の日まで?」
高倉 「エエ、寸前まで行っていた。当時裕ちゃん(石原裕次郎)が売れてて、どこの店でも「俺は待ってるぜ」がかかってるんです。・・・・・ものすごくわびしかったね(笑)」
高田 「話がどんどん映画からそれますが・・・(笑)」
高倉 「僕もこんなこと話したのは初めてですよ」
高田 「良いんですか、書いても?]
高倉 「全く構わないです。僕はストイックとか何とか言われると、自分でおかしくて仕方ないんだから・・・」、と。
昭和33年ごろ、高倉健はすでに主役デビューはしていたが、まだ炸裂はしていない頃。任侠シリーズも網走番外地シリーズもまだ先のころである。
それにしても、女っけがなく、「不器用ですから」のストイックなイメージの健さんが、このようなことを話しているのはとても面白い。
これも健さん、文化勲章を受けたのも健さん、あちこち気配りの人も健さん、得難い人が逝っちゃった。
菅原文太に関しては、奥さんの言葉が印象に残っている。
正確に憶えているわけじゃないが、ほぼ、このようなことであった。
「結婚して、菅原に教えてもらったのは、ラグビーとプロレスと格闘技、それに反戦。それだけでした」、との言葉。文太兄い、「戦争をしちゃいけない」、と言い続けてたんだ。
それにしても、建さんと文太兄い、得難い人が向こうへ行っちゃった。