島谷、早稲田へ帰る。

島谷晃が死んだのは、2010年5月。間もなく5年となる。
ひと月少し前、古い仲間のOからメールがきた。島谷の作品などが、島谷の夫人から早稲田の會津八一記念博物館へ寄贈され、それらが展示されているとの。
一昨日、行った。
100号の油絵が4点、『ユリイカ』、『すばる』、『文学界』などの表紙絵や挿絵、それに島谷晃の軌跡が分かるであろうスクラップブック。それらが會津八一記念博物館の常設展示室に、敬意を持って展示されている。
島谷晃、半世紀を経て早稲田へ帰った。

會津八一記念博物館前の看板。

會津八一記念博物館の入口。
會津八一記念博物館、幾つもの顔を持っている。
大隈記念室とか、冨岡重憲コレクション展示室とか。現在の企画展は、「戦後70年 学徒たちの戦場」。冨岡重憲コレクション展示室では、「黄檗僧の書と明清美術展」が。

中に入る。
他の展示に混じり、2階の常設展示室で、「2014年度 會津博への贈りもの」が催されている。

これだ。

島谷晃の1981年の作≪My owls≫。
100号の油彩。
2001年12月初めから2002年2月末にかけての3か月、島谷は伊東の池田20世紀美術館で一世一代の大回顧展を開いた。その時の図録に島谷晃はこう記している。
<じつは、私は背中の左右に緑色の翼を持ち、それを操り飛びまわる事ができるのです。今、思い返すと多分羽根が生え出したのは、1963年の春だったと思います。どうにか大学に入り、教室より部室に通う毎日を、過ごし始めていた頃でした>、と。
そう、島谷は1963年に早稲田に入り、教室より”部室”、つまり美術研究会、通称「美研(ビケン)」の部室で過ごしていたんだ。そして絵描きになった。
しかし、早稲田は美術大学ではない。普通の総合大学である。その中で島谷、卒業後勤めもせず、絵を描くことのみで生きてきた。さまざまな軋轢、厳しいこともあったであろうが。
會津八一記念博物館へ寄贈され、會津博のパーマネントコレクションとなった島谷晃の作品、まさに、「島谷、早稲田へ帰る」である。
学生時代からの古い仲間として、とても嬉しい。

會津八一記念博物館の端の方にはこのような看板が。
「早稲田反戦アクション」、となっている。

この看板の主催者は、「戦争・貧困・環境を考える会」。

「IS人質事件は・・・」の主催者は、「みんせい早大班」。

<不偏不党現場現実主義>、はいいが、<大学公認政治サークル>ってどういうことか。体制批判はしないってことか。体制に反旗を掲げなくて、なんの若者ぞ、学生時代ぞ、と思う。

ウインドサーフィンとか、

合気道とか、オーソドックスな部活も。

南門の方へ。

「下駄っぱーず」って、下駄でタップを踊るってサークルらしい。そんなものどこが面白いんだ、と思うが面白いんだろう。
早稲田の部活、サークル、今、大学公認のものだけでも570余あるそうだ。だから、なんだそりゃってものも、掃いて捨てるほどある。

大隈さんの後ろの方に、こんな掲示板があった。

「モーニング娘。研究会」って、野郎どもの集まりかと思っていたら、女の子がチャレンジするサークルでもあるらしい。
「射撃部」は昔からあるな。その右は、「ミス早稲田コンテスト2015実行委員会 新歓説明会」だ。美人の女子大生は、慶應や上智、それに佳子さまのICUばかりにいるわけじゃない。早稲田にもそれなりに美人はいるんだ。昔から。

「難民支援ボランティア」や「百キロハイク」、安倍政権へ抗議する団体、などなど。

端っこの方に、「わかもの農援隊」のポスターが貼られていた。
剥がれたりめくれたりしているものが多い中、謹厳実直な感じを受ける。
ポスターには、<現在隊員4人で活動中>、の文字が読みとれる。なんと、「わかもの農援隊」の隊員、現在4人しかいないんだ。農村支援、頼みますなんだけどな。

一昨日、土曜日であった故か、新歓会も一段落した故か、早稲田の構内、学生の姿は少なかった。
学食で遅い昼飯を食った。
カレーライス(中)、味噌汁、春のバランス惣菜、この3点でトータル377円。さすが早稲田、私がこの7〜8年通っている近場の小さな大学の学食よりはるかに安い。
それより、「島谷、母校・早稲田へ帰る」、の思い強し。