青もみじ巡り(3) 根本中堂朝勤行。

朝のお勤めには出るつもりでいた。
比叡山延暦寺の総本堂である根本中堂で、6時半から朝のお勤めは始まる、という。少し早く行こう。チェックイン時、5時半にモーニングコールを、と頼んだ。私の日常、朝早く起きることなど滅多にない。こんなに早く起きるのは、半年前の高野山の宿坊以来。
宿から根本中堂までは5〜6分である。

6時すぎ宿を出、根本中堂へ。
このような道を歩く。

比叡山だなー。
比叡山である。

”祖師先徳鑚仰大法会 平成二十四年四月一日から平成三十四年三月三十一日まで”の立札。
大法会、10年に及ぶんだ。
何しろこの間、伝教大師最澄、慈覚大師円仁、相応和尚、恵心僧都の御遠忌が続くんだから。

桜の巨木が大きく枝を伸ばしている。
その向うに根本中堂が見えてくる。

根本中堂への石段を下りる。
4月末である。しかし、早朝の叡山、肌寒い。

朝の勤行、お勤めは6時半からである。根本中堂の扉はまだ閉じられている。でも、既に先人がいた。

根本中堂のすぐ前は、延暦寺の山門でもある文殊楼への石段。
その前に、この柱。そこには、こう記されている。
”奉修祖師先徳鑚仰大法会 佛日増輝 世界平和 萬民豊楽 萬物共生 祈攸”、と。

左の方へ眼をやると、枝垂れ桜と石楠花。
その向うには・・・

この碑がある。
宮沢賢治の『根本中堂』。
     ねがはくは
     妙法如来
     正徧知
     大師のみ旨
     成らしめたまへ

そうだった。
宮沢賢治、とても熱心な法華経信者であった。

そうこうするうち、根本中堂の扉が開いた。

ここから先は、撮影厳禁。

根本中堂、こういうものである。
延暦7年(788年)、最澄が庵を結んだ一乗止観院が、その源である。
それ以来、何度も焼失している。その最たるものは、元亀2年(1571年)9月12日の、織田信長による叡山焼討ちである。
『街道をゆく 16 叡山の諸道』で、司馬遼太郎はこう記す。
<山上の堂塔は一宇も残さず焼かれ、経巻や文書、什器のたぐいも残らず灰になった>、と。
だから、不滅の法灯が1200年余輝き続けてきたワケではない。信長、すべてを灰燼になしたのだから。現在の法灯は、その後、立石寺から分灯を受けたものだ、という。
ところで、根本中堂には回廊が巡らされている。回廊を巡り、堂内へ入る。
堂内は、外陣、中陣、内陣に分かれている。
お勤めに参加する衆生は、中陣に座る。この日、朝の勤行に参加していたのは20数人であった。
中陣には、朱塗りの列柱が多くある。上を見れば、格天井。多くの草花が描かれている。
中陣と読経する僧がいる内陣とは、ガッシリとした格子で隔てられている。その内陣、中陣より3〜4メートル掘り下げられているのに、驚いた。
4月末とはいえ、冷気の中での勤行、得難い時であった。

7時すぎ、お勤めを終り、来た道を戻る。
根本中堂をふり返る。
どっしりとした伽藍。堂々たる堂宇である。

宿へ戻り、食堂へ。
その日の朝食、これである。
お粥であった。とても旨かった。

窓外、琵琶湖が見える。
手前の町は、坂本であろう。