青もみじ巡り(8) 横川(続き)。

比叡山延暦寺、戦国末期、信長による焼討ちで全山の堂塔伽藍、灰燼に帰するが、災いはそれのみではない。
延暦寺の歴史、戦いの連続である。
平安時代初期、最澄と空海という二人の天才によって、新しい考え方が日本にもたらされる。先進国・唐からもたらされた天台と真言の教えである。
最澄と空海、同期の遣唐使船で唐へ渡る。しかし、最澄は早く帰国する。
『街道をゆく 16 叡山の諸道』の中で、司馬遼太郎は、こう記す。
<一時は最澄の密教がもてはやされたが、ほどなく大唐長安の正統密教のことごとくを持ちかえった密教専門家の空海に、その面での主座をゆずらざるをえなかった>、と。最澄、年下の空海に辞を低くすること、幾度となくでてくる。
それ以前に、時のエスタブリッシュメントである南都(奈良仏教)との関係がある。興福寺、東大寺を初めとする南都六宗からは、最澄理論の脆弱性を突かれる。
じっくりと密教を学んだ空海と異なり、いわば駆け足で田舎密教を持ち帰った最澄の弱い点を、南都の連中は突いてくるんだ。
こんなことを書いていると、「頑張れ、最澄」って、最澄に肩入れしたくなってくるほど。
そればかりじゃない。比叡山延暦寺の中でも争いが起こる。
伝教大師最澄の後、どうするか、という問題である。 権力闘争が起こるんだ。
<最澄が死んだあと、一山を統べる職ができた>、と司馬遼太郎は記す。天台座主である。
初代座主は、最澄入唐時の通訳・義真。義真に対する司馬遼太郎の筆は、キツイ。単なる能吏、と言っている。
第三世座主・慈覚大師円仁については、司馬遼太郎の筆、とても優しい。
<円仁の性格には功名主義というなまぐさいものが見られない。入唐して名を不朽にしたいというのが動機ではなく、まわりの勧めで亡師の遺志を遂げるべくやむなく遣唐使団のなかに加わったということであったらしい>、と司馬遼太郎。
円仁がらみの写真をひとつ。

横川中堂の近くに、この二層の塔が現れた。
根本如法塔。
<慈覚大師円仁が、根本杉の祠の中で始めた如法写経にちなむ>、と叡山のパンフにはある。
上の方にある堂宇だから、私は側までは行かなかった。
でも、下から見上げても趣があった。