青もみじ巡り(7) 横川。

あちこちへ出かけており、ブログも間遠となった。
叡山山上へ戻る。
東塔(とうどう)の堂塔を巡り、東塔にある数少ない食堂・鶴喜そばで、少し早目の昼食を取る。”比叡山うどん”というものを食った。山菜、とろろ昆布、揚げ玉などが少しずつ入っている。
食後、宿へ戻り、3〜40分横になる。12時すぎ、国寶殿近くのバスセンターへ。

比叡山延暦寺の領域、”周囲は約100キロメートル”、という五木寛之の記述、あながち誇張にすぎることはない。比叡山の東麓・琵琶湖畔の坂本の里坊から、西麓・京都側の赤山禅院までをぐるっと結べば、100キロ程度にはなるだろう。
叡山山上も、まあ広い。東塔、西塔、横川(よかわ)の3エリア、シャトルバスで移動する。シャトルバスの最終は4時。
まず、5〜6キロ離れた横川エリアへ行くこととする。徒歩で120分、シャトルバスで13分、と説明書にある。シャトルバス、木々の間を走る。

横川へ着き、横川中堂への道を歩く。
ウォー、一面の青もみじである。
下の方には、絵看板が見える。

このような。

比叡山延暦寺、各宗の祖師が、ここで修業したことを誇りとしているようだ。

暫らく進むと、横川中堂が見えてくる。

石積みの上には、横川中堂。

横川中堂、横川エリアの心臓。

延暦寺の堂塔は、何度も何度も焼失、再建を繰り返している。
この横川中堂も、元はと言えば、第三世天台座主円仁の開創によるもの。

横川中堂のすぐ近く、石段の上に小さなお社がある。

赤山宮、とある。
司馬遼太郎著『街道をゆく 16 叡山の諸道』には、慈覚大師円仁のことが次々に出てくること、初めの頃に記した。
円仁と赤山、深い結びつきがある。司馬遼太郎の書から幾つか引く。
<赤山は、本来、中国の地名である。平安初期、円仁が入唐(838)したとき、山東半島の赤山の地で居留新羅人たちにじつに世話になったということは・・・。・・・・・。円仁は大変な時代に入唐した。・・・・・。こういう困難な情勢のなかで、山東半島赤山浦の新羅居留民たちは円仁の旅のために便宜をはかり、・・・・・。赤山はついにかれの在唐中、私的な根拠地のようにもなった>、と司馬遼太郎。

元三大師堂の方へ歩く。
この先の道を。

道の上には、横川中堂が見える。
青もみじの淡いグリーンと中堂の丹色が、溶けあう。