富士山。

世界遺産に登録されたってことで、昨年の夏から秋にかけてはあちこちで富士山が取りあげられた。
「芸術新潮」でも9月号で、”世界遺産登録記念”と銘打ち「富士山 その絵画と信仰」大特集を組んだ。富士山を描いた絵がいっぱい出てくる。よく見知ったものも、そうでないものも。
まず、<・・・・・和歌や物語と比べ、絵画作品に富士山が登場するのは意外に遅い。・・・・・>、とある。
現存する最古の作品は、聖徳太子の生涯を描いた≪聖徳太子絵伝≫だそうだ。黒駒に乗った聖徳太子が、富士山を飛び越える様が描かれている延久元年(1069年)の作。
多く描かれるようになるのは、室町時代以降。その後、今に繋がる富士山の絵の基本形とも言えるのは、伝雪舟の≪富士三保清見寺図≫、と。
そう言えば、世界遺産への登録云々の時、何故遠く離れた三保ノ松原と富士山がセットなんだ、三保ノ松原を外せと迫るユネスコと、いや外せないと言う日本側との間に綱引きがあった。結局、三保ノ松原も認められたが。
あの雪舟の筆になると伝えられる、富士山と三保ノ松原がセットとなった絵、その後の富士山画に大きな影響を与えている。日本側としては、引くわけにはいかなかったんだ、きっと。
江戸時代に入ると、”百画繚乱フジざかり(©芸術新潮)”状態となる。
蘇我蕭白、池大雅、谷文晁、司馬江漢、そして何と言っても葛飾北斎、安藤広重。その後も富岡鉄斎、横山大観、梅原龍三郎、片岡球子、横山操、・・・・・、・・・・・、と今に続いている。
これら歴史上の人物と並べるのもナンであるが、私の友人たちでも日常的に絵を描いている連中には、富士山を描いている者もいる。
つき合いがいいヤツで、幾つもの団体、グループに入っている山本宣史もその一人。2月中旬、「グループ表現 −富士山ー」というグループ展が京橋の画廊で開かれた。

山本宣史の水墨画≪笠富士≫。
タイトルの後ろに”(2009/11/22 14:05)と記されている。
会場にデンと座っていた人が、こう言った。「余計なことなんか書かなきゃいいのに、それ、富士山の笠雲の写真を撮った日時だそうです」、と。

画廊の人が「この先生の作品はこれです」というその人の作品はこれ。
額のガラスに映りこみが多くあるが、廣瀬創作≪空・青・雲≫。
山本宣史からもらったハガキに刷られていた写真もこの作品。手慣れた作品。10人の”グループ表現”の世話人のようだ。
「いつも山本の作品はボクのブログに載せているのですが、ここの作品も写真に撮ってブログに載せてもいいでしょうか」、と訊いた。「そんなこと、どうぞどうぞ」、と廣瀬さん。
ソチ五輪は始まっていたが、まだメダルは取れていなかった頃であった。話の接ぎ穂に、「オリンピック、メダルなかなか取れませんねー」、と言った。
と、こういう言葉が返ってきた。「メダルなんてそう取れませんよ。大体、みんなメダルを取るなんて言っていますが、そんなに取ってどうするのです。取れませんよ。もっとも私はオリンピックなんて観てないんですから、よくは知りませんが」、と廣瀬さん。
この頃は夜明けまでオリンピックのライブを観ていた私、「オリンピック、観てないんですか」、と訊いた。「観てません。第一私んとこにはテレビがないんですから」、と廣瀬さん。
「テレビ、やめたんですか」。「そうです。テレビなどを観ること、やめました」。「ヘー、凄いことですね。大変じゃないですか」、と訊いた。
「他人と話していて、たまに知らないことがありますが、そんなことどうってことありませんよ」と廣瀬さん。きっと、ある領域まで到達したんだ、な。
「夕飯を食ったら、やることがないから寝る」、と言っていた廣瀬さん、山本宣史、よろしく伝えてもらいたい。

五辻節子作≪雲海≫。

竹林ヒロ子作≪明日は晴≫。
いずれも、今につながる富士山画。

今日、光田節子から書簡が届いた。便箋3枚にインクで記された手紙。3日前に記した光田節子の作品についてのブログに関してのもの。
≪私の山 −今ー≫、≪私の山 −これからー≫の他に、≪私の山 −継続ー≫という作品があったそうだ。
私には理解できなかった。しかし、光田節子がそれぞれの作品に込めた思いは 他の人に理解され得るものではなかった。おそらくこれからも。
でも、私が理解できる光田節子がひとつだけある。
上は、今年の正月に光田節子から頂戴した年賀状の一部である。おそらく、ここ何年か年末の数日通っているという忍野から見た富士山であろう。
昨秋、光田節子はこう言っていた。「ある時、富士山の絵から稜線を取り去った」、と。
八の字の稜線あってこその富士山である。その稜線を取っぱらうなんて、誰が考える。そんなヤツはいない。稜線あってこその富士山である。北斎も鉄斎も大観も、だれもそんなことは考えなかった。だれも思いつかなかった。光田節子のみである。
凄い発想。
3日前、「冥の照覧」として記した光田節子の≪私の山≫の2点、そのような富士山である。