ソフト立国(続き)。

17回目となる文化庁メディア芸術祭、世界に開かれている。
今回は過去最多、84の国と地域から4347点の応募があったそうだ。

ナンじゃ、これは?

エンターテインメント部門の優秀賞。
何かおどろおどろしいぞ。

宇治茶は、京都生まれの若者。世界デビューとは大きく出たものだ。
劇画とアニメーションが融合した「劇メーション」にして、「激ロー・バジェット(小規模予算)」作。

どういうこと?

”持ち出し厳禁!!”という小冊子が置かれている。

中を見ると、こういうアニメ。

ウーンだな。

大きなモニターの周りには、小さな”燃える仏像人間”のキャラクターがいっぱいあった。
ハッキリ言って、私にはよく解からない。でも、どこか何か引っかかるものがある。

アニメーション部門の大賞を取った≪はちみつ色のユン≫。

≪はちみつ色のユン≫、ドキュメンタリー・アニメーション。
韓国系ベルギー人のユンと、フランス人であるローラン・ボアローの共作。

多くの人を集めていた。
どこか惹かれるんだ。

そうなんだ。
多くの韓国人の子供たち、アメリカやヨーロッパへもらわれていったんだ。

1965年生まれのユン、1971年、6つの時にベルギー人の家族となった模様。

この家の子になったんだ。

そうだよな。モンゴリアンであるユンの肌色、白くもなければ黒くもないもの。

原題、『肌の色 : はちみつ色』。
宮崎アニメやディズニーアニメとは、肌合いが異なる。
このアニメ、昨年末、東中野のポレポレで上映されたそうだが、知らなかった。

功労賞というものがあった。何人かの先覚者が表彰されている。阿部修也もその一人。
阿部修也、1932年生まれ、東北大で物理学と通信工学を学んだエンジニア。
阿部修也、1963年、秋葉原で、後にジャンル横断的な20世紀芸術の巨人の一人となるナム・ジュン・パイクと初めて出会う。
上は、「パイク・アベ・ビデオ・シンセサイザー」によって出力された画像。
≪はちみつ色のユン≫のユンは、朝鮮戦争の混乱の後、ベルギーへもらわれていった。しかし、同じ韓国生まれのナム・ジュン・パイクは、朝鮮戦争を避け、1950年日本へ移住する。
日本へ来たナム・ジュン・パイク、東大へ入り美学を学ぶ。東大卒業後はドイツへ。ミュンヘン大学などで現代音楽を学ぶ。芸術の巨人への階段をどんどん駈けあがっていったんだ。
で、1963年、秋葉原で阿部修也に出会う。
それ以降、阿部修也は、パイク作品の技術的な支援を続ける。ナム・ジュン・パイクのビデオ・アート、コンテンポラリー・アートの共同制作者ということもできる、という。

ナム・ジュン・パイクの阿部修也への言葉。
”師友”とか”兄”とかの文字が見られるが、パイクと阿部は共に1932年生まれの同年。阿部修也、巨人・ナム・ジュン・パイクを支えていたんだ。

1960年代初め、ドイツへ行ったナム・ジュン・パイク、フルクサスの運動に加わる。
上は、ロボットを操縦するナム・ジュン・パイク。1965年の写真である。
その後ろにいる帽子を被っている男は、20世紀美術の怪人・ヨーゼフ・ボイス。フルクサスの仲間である。

ナム・ジュン・パイクを挟んだ1971年の写真。
ナム・ジュン・パイクの右にいるのは阿部修也、左にいるのはオノ・ヨーコとジョン・レノン。
オノ・ヨーコもフルクサスがらみ。


ナム・ジュン・パイク、阿部修也に対し、「私の大先生、大師匠」と言っている。別のところでは、「私の愛する、尊敬する、憧れる」、とも。
7〜8年前になろうか、青山のワタリウムでナム・ジュン・パイクの回顧展が催された。
ビデオ・アートばかりじゃなく、メカニカルなものがさまざま動いていた。阿部修也がきちんとメンテしていたんだ。
阿部修也、巨人・ナム・ジュン・パイクをずっと支え続けているんだな。