ぶれない。

一昨日、2月11日、光田節子の新作を観るため国立新美術館での新槐樹社展へ行った。

もちろん、気合をこめて。
知り合いの展覧会、「気合をこめて」なんてことはないのだが、新槐樹社展の光田節子の作品だけは気合をこめて観に行く。

会員・光田節子の作品は、10室にあった。

新槐樹社展での光田節子の作品を観ること、6年目となる。
やはり。
ぶれていない。
この6年間の新槐樹社展での光田作品に触れたタイトルを思い出す。
2011年は、<ロスコを追う人>であった。2012年は、<不可思議色>。2013年は、<求道者>。2014年は、<冥の照覧>。そして昨年、2015年は、<富士山>。
が、その作品は・・・ぶれない、ぶれていない。

≪私の山ー’15−Ⅱ≫。
私の山2015年バージョンのⅡであろう。
ところで、2012年には、こう記した。
<「冷たくても、冷たくなくても、神はここにいる」、という言葉を思い出す。元々はカール・ユングの言葉だそうだが、ここ2〜3年の間に、数百万の人に読まれた小説に出てくる言葉だ。そう言えば、と思われる方もおられよう。
この小説の中でも、”なんだかよくは解からないが、何か深いものがありそうだ”、という比喩に使われている。>。
なんだかよく解んないが、である。

≪私の山ー’15−Ⅲ≫。
私の山2015年バージョンのⅢであろう。
2013年には、アサビの早見堯の言葉を記した。
<人は天啓が下るかのようにしてある時突然なにごとかに気がついてしまうことがあるのではないだろうか。「そうだ、これだ!・・・・・>。
<だから天啓のアイデアを手に入れてからのアーティストの作品はワンパターンになる。いや・・・・・唯一のアイデアを手にしてはじめてアーティストになることができる通過儀礼を終えたことになる>。
また、2014年には、興福寺貫主・多川俊映のこういう言葉を借りた。
<近代以降、もっとも意を用いなくなったのは「冥の照覧」であろう。冥とは、暗いとか目にみえない意味で、人間を超えたもののこと。その視線がわが心にそそがれている・・・・・それが、冥の照覧だ。・・・・・。わが心の内を照射するものに、改めて意を用いたい>、という。
光田節子と絵の話を初めてしたのは、7、8年前の法事の場であった。好きな作家は、マーク・ロスコと言う。
驚いた覚えがある。
一昨日、新槐樹社展の後、やはり国立新美術館で催されている大原美術館コレクション展へ行った。素晴らしい展覧会である。
マーク・ロスコのこの作品も出ている。

マーク・ロスコ≪無題<緑の上の緑≫。1969年の作。大原美術館の図録を複写した。
得も言えぬ。霊的。
マーク・ロスコと光田節子、光田の方がエモーショナル。

実は一昨日、光田節子の隣の作品が気になった。
日の光に照らされ地上へ落ちた影である。
実は私、このような日の光から地上へ照らされる私自身の影を多く撮っている。国の内外で。この「流山子雑録」のプロフィール画像もそう。10年ほど前、筑波山の山肌へ落ちた影。
それはともあれ、この緑の絵。

作家は、佐藤治子。
タイトルは、≪緑陰≫。


それはそれとし、<何でもそうでしょうが、「一道万里に通ず」というところがあると思います。座禅の気持ち、無心というところに自分を持っていけば、何が立ちはだかろうが怖くない。そして、この気持ちが気迫となって相手にも伝わるのです>(平山郁夫著『ぶれない』2008年、三笠書房刊)。
ぶれない、ということ。
光田節子もぶれない。
まったくぶれていない。


この10日ばかりの間、世は動いていた。
北朝鮮の悪ガキは、21世紀とも思えぬ、世界をなめた行動をしでかしている。
アメリカ大統領選も、21世紀とは思えぬ展開だ。ニューハンプシャーでの戦い、ヒラリーは大差でサンダースに敗れ、片や共和党、トランプがトップ。
アメリカ国民、世界市民としての意識、あるとは思えない。
日経平均も年初来、2割以上下がった。
マイナス金利を打ち出した黒田バズーカも不発の模様。