神品・松林図屏風。

昨年、東博がそのウェブサイトで、「あなたが見たい国宝は?」という投票を募ったところ、ナンバー1に輝いた国宝がこれであるそうだ。
長谷川等伯の水墨画≪松林図屏風≫。神品と称せられる。
さもありなん、とは思う。日本人はこの作品が大好きだから。しかし、全ての国宝の中でナンバー1とは、少しやりすぎじゃないの、とも考える。
東博、新春特別公開でこれを出してきた。

私が東博が好きな理由のひとつは、その太っ腹なところにある。
フラッシュさえ使わなければ、殆んどの展示物の撮影は許されている。実は、日本の美術館や博物館、そうでないところが多い。お前のところもか、どうしてか、と思うことが多い。ルーブルや大英博物館でさえ、フラッシュを使わなければ全ての展示物の撮影は自由なのに。
だから、東博、人気ナンバー1の等伯の≪松林図屏風≫の撮影もOK。
人が多い。確かに、人気がある。

そう言えば、4年前の今ごろ、「日本遺産」について書いていた。
創刊60周年を迎えた「芸術新潮」がその年の新年号で、「日本遺産」を特集した時である。気鋭のアーティストや学者連中など、68名の現代日本を代表する人たちから募った「日本遺産」。
私は、「芸術新潮」になり変わり、その集計をし、ランキングをつけた。その折り、同率8位になったのが、等伯の≪松林図屏風≫であった。
時間のおありのお方は、右上の「記事一覧」をクリックし、2010年1月のブログ「日本遺産・ベスト10」や「日本遺産補遺」をご覧いただきたい。
私自身は、等伯の凄さは認めながらも、雪舟、光琳、北斎、なかんずく北斎を取っているのであるが。

≪松林図屏風≫右隻。
長谷川等伯、安土桃山時代の絵描きである。
生まれは、能登・七尾。天文8年、西暦で言えば、1539年の生まれ。
33歳で上洛する。しかし、都では狩野派が全盛だ。50歳ぐらいまでは苦労する。1590年、等伯52歳の時、目の上のたんこぶ、狩野派の総帥・狩野永徳が死ぬ。その頃のアーティスト、時の権力者といかに結びついているか、ということがとても大事。
面白いことがある。長谷川等伯とライバル・狩野永徳との年の差は4歳であるが、その時代の権力者である信長、秀吉、家康、この5人、殆んど同じく生まれている。前後10年弱の間に。面白い。
等伯、狩野永徳の死後、祥雲寺(現在の智積院)の障壁画を任されている。豪華絢爛たる金碧障壁画。水墨画の≪松林図屏風≫、その金碧障壁画と並行して描かれている。凄い才能である。

≪松林図屏風≫左隻。
この六曲一双の屏風、専門家によれば不思議なところが幾つもあるそうだ。
没後400年記念に出された『別冊太陽 長谷川等伯』(平凡社、2010年刊)の中で、東京学芸大教授の鈴木廣之、こういうことを書いている。
印や紙、紙継ぎのズレなどから見て、この作品は、六曲一双の屏風絵ではなく、もっと大きな襖や壁貼付などの障壁画の一部、しかも草稿ではないか、ということが専門家の間では言われているそうだ。

右隻第1・2・3扇部分。

右隻第3・4・5・6扇部分。

左隻第3・4・5・6扇部分。
鈴木廣之、こう記す。
<ここに表現されたのは霧か霞か靄か、水蒸気をたっぷり含んだ大気が光と混じり合う無限の空間だ>、と。

左隻第1・2扇部分。
第1扇の上の方には、雪の遠山が見える。

これである。
雪を頂いた富士山じゃないか。誰しもそう考える。
この雪の遠山を中心として、右隻と左隻が直交していたんじゃないか、ということも囁かれているそうだ。障壁画の草稿である、という立場に立って。
それはどうとも分からない。それよりも・・・・・
霧か霞か靄かは知らず、その中にボーと浮かぶ松林図、この上もなく日本的であることは確かである。
今回の≪松林図屏風≫の展示、26日までである。


細川護煕と小泉純一郎、今日会談。細川護煕、都知事選へ立つ。面白くなってきた、との声が多そうである。
そんなことはない。
ワンイシューの諾否、国政選挙では成り立ちもしよう。しかし、「脱原発」のワンイシューだけでは都知事選は戦えまい。相手の舛添要一自体、「私も脱原発」と言っている上に、「東京オリンピック、パラリンピックを・・・・・」と言っているのだから。
細川+小泉のタッグチーム、面白いことは面白いが、舛添に敗れるであろう。