高野・熊野・伊勢巡り(4) 奥の院。

奥の院への参道を歩いてきた人の前に、この建物が現われる。

休憩所。
奥の院の中枢・弘法大師御廟へお参りする前に、少しお休みください、ということであろう。
その少し先には、幾つかのお堂がある。

”大黒天”の額が掛かるお堂。

求めた線香を点した蝋燭。

”弘法大師 御自作彫像”、と記されている。
弘法大師空海、何でもござれ万能の天才であるから、これも、なのであろうか。

その先には、水向地蔵が。
さまざまなお地蔵さまがおわす。

弘法大師御廟へ参る前、これらのお地蔵さまへお水をかけてください、というもの。

弘法大師御廟への入口・御廟橋。
正面奥に見えているのは、燈籠堂。堂の正面には、1000年近く燃えつづけている「消えずの火」がある。さらにその奥には、弘法大師御廟・奥の院御廟がある。
いずれにしろ、御廟橋から先は撮影禁止である。記憶を頼りに記す。
燈籠堂、上皇や上人が灯したものもあった。多くの寄進を受けた灯もあった。貧者の一灯であり、冨者の一灯でもある、と思われるものも。燈籠の灯もさまざまである。
弘法大師御廟・奥の院御廟には、お賽銭をあげ手を合わせ拝んだ。この日までの4日間、関西へ行って以来訪れている幾つかの寺社で拝んでいるのと同じく、孫娘とその一家の幸せを念じた。
奥の院御廟、弘法大師空海が入定したところ。承和2年(835年)3月21日、弘法大師空海は入定した。61歳であった。1200年近く前には、十分な年齢であったであろう。しかし、現代の感覚からすれば、若すぎる死。いかに、天才薄命とは言え。
燈籠堂の前の方に、石碑があろ。雨に煙る中に、小さな石碑が建っている。昭和天皇の御製である。
雨の中、何とかその碑面を書きつけた。
<御製(高野山にて)
     史(ふみ)に見る おくつきどころををがみつヽ 杉大樹(すぎおおき)並(な)む 山のぼりゆく
昭和52年4月18、19日両日高野山へ行幸啓遊ばしされたその砌、特に御心を奥之院におとどめ遊ばされ、この歌を賜りました。侍従長入江相政氏が謹書せられました>、とあった。
確かに、高野山奥の院、昭和天皇が詠まれたままの風情、いや、”気”に満ちている。

厳かな”気”に満ちた世界から、御廟橋を渡りこちらの世界へ戻ってくる。
お堂の軒下で雨を避け、10数人の白衣の人たちが集まっている。その前には、一人の男。何やら話している。団体でお参りに来た善男善女であるらしい。
ところで、写真の周りの方、ボーと曇っている。
時折り、雨が強く降る。デジカメの中にも、雨が入って来ているようだ。で、周りがボーとなってしまう。

ここいらは、こう。

奥の院らしい佇まい。

ここでは、お茶が沸かされている。
それぞれの人、自ら柄杓でお茶をくみ、飲むように、と。
雨の中からこのお堂へ入り、温かいお茶をいただくこと、いやー、とても、ありがたかった。

この茶処、奥の院頌徳殿と言い、一日に6回法話が行なわれている。この日は、女性の布教師が話されていた。

その表には、高野山のマスコット・キャラクター・こうやくんがいた。