無邪気なカリスマ。

20年少し前になろうか、ある時から、バレーやダンスを観るのがやたら好きになった。とっかかりはミラノのスカラ座。スカラ座の天井桟敷の当日券が買えると聞き、すっ飛んで行った。
スカラ座のバルコンの天井桟敷、立見席である。チケット代は、日本円換算では1000円もしない。7〜800円ぐらいであった。幕間には、やはり7〜800円程度のシャンパンをバルコニーに出て飲む。周りには知ったる人は誰もいない。話し相手もいない。しかし、とても濃密な時間が流れている感じがした。出し物が、ポピュラーな『白鳥の湖』であったこともよかったのかもしれない。
その後、ヨーロッパのあちこちのオペラハウスへ行くようになった。パリ、ロンドン、ベルリン、プラハ、モスクワ、サンクトペテルブルグ、その他の町の。しかし、日本では、殆んど行ったことがない。日本では、チケット代が高いからおいそれとは行けない。
初台の新国立劇場ができた少し後、その方面に詳しい若い男に誘われ観に行った。同じ演目、ブダペストの国立オペラハウスの最もいいバルコンで観た時の5倍以上の値段であった。
でも、しかし、ダンサーが好きなんだ。私は。
岩波ホール、8月の原爆がらみの2本の作品の前には、この映画がかかっていた。

『そしてAKIKOは・・・〜あるダンサーの肖像〜』。
監督は、羽田澄子。
羽田澄子、1985年にアキコ・カンダのドキュメンタリーを撮っている。『AKIKOーあるダンサーの肖像ー』。
岩波ホールの支配人・高野悦子は、今年死んだが、その高野悦子とアキコ・カンダ、日本女子大の同級生なんだそうである。で、高野悦子が岩波映画の出である羽田澄子に、アキコ・カンダを撮ったらどうか、と言ったそうだ。

アキコ・カンダ、1956年、日本女子大を中退、ニューヨークへ行きマーサ・グラハムの舞踊学校へ入る。アキコ・カンダ、、7歳の時からダンスを習っていた、という。何か月か後には、マーサ・グラハム・ダンスカンパニーのメンバーに昇格する。
6年後、1961年帰国。アキコ・カンダ・ダンスカンパニーを立ちあげる。

ダンスで食っていくのは大変だ。でも、それに賭けてんだ。腹を据えてんだ。強いよ、そういう人は。
アキコ・カンダ、「ダンスは私にとっての哲学だと言えたら、最高に幸せね」なんて言っている。ま、そうではある。ダンス、ダンスの人生なんだ。
実は、アキコ・カンダ、ニューヨークから帰ってきた後、結婚している。子供が一人いる。でも、相手の男とはすぐ別れ、子供も姉に預け、自身はダンスに没入していく。
少し驚いたが、アキコ・カンダ、宝塚歌劇のダンスの講師を49年間していたそうだ。凄いことだよな。
また、今、50前後となっているその息子、こう語る。
「親子って感じは、あまりしないですね」。「「いや、子供みたいな人なんですよ。つまんない物を、私の子供、つまり孫と、本気で取り合いなんてしてるんですよ」、と。
1階がアキコ・カンダのカンパニーのスタジオで、その上の階にアキコ・カンダなどが住んでいる住居のベランダに出てきたアキコ・カンダ、こう言う。
「植木の皆さん、お元気ですか?」って。無邪気な人なんだ。
ダンサー、夏前に記したフラメンコの長嶺ヤス子もそうであるが、すさまじいカリスマ、とても無邪気な人でもある。
アキコ・カンダも、どうもそう。

羽田澄子がアキコ・カンダを撮っている過程で、アキコ・カンダの身体に癌があり、それが進行していることが明らかになる。
”いのちつきるまで踊りつづけて”。

アキコ・カンダの身体、骨と皮だけ、ガリガリとなる。
しかし、2011年9月11日、秋の公演の舞台に立ち踊る。すさまじい執念。
その12日後、アキコ・カンダ死ぬ。
無邪気なカリスマであった。