ホワイト・クロウ 伝説のダンサー。

米中冷戦の時代が来るのか、現状ではまだ分からない。が、1989年11月10日のベルリンの壁崩壊、さらに1991年12月25日のソ連崩壊、つい30年ほど前までは米ソ冷戦の時代であった。
さまざまな人が亡命を試みた。東から西へと。成功した人もいる。上手くいかず命を落とした人もいる。
1961年、パリでのルドルフ・ヌレエフの亡命は危機一髪、西側世界へ駆け抜けることができた。
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23歳のルドルフ・ヌレエフ、キーロフ・バレエ(現マリインスキーバレエ)の一員としてパリ公演に来ていた。祖国・ソ連を出たのは初めてである。
ルドルフ・ヌレエフ、初めての西側世界、ましてやパリである。何もかも刺激的である。フランスのダンサーたちとの交流もある。また、これも史実に基づいているのであろうが、アンドレ・マルローの息子(この時には死んでいるのだが)の婚約者、クララ・サンとも知り合う。
しかし、身の周りには、常にKGBの監視の目が光る。
キーロフバレエの一行は、パリから次の公演地であるロンドンへ向かう。しかし、ルドルフ・ヌレエフだけがパリに残される。ソ連へ戻す、と。フルシチョフの前で踊ってもらう、と。
国に帰れば危ない。収容所へ送られる。ヌレエフはそう思う。が、周りにはソ連大使館員とKGBの要員。
ハラハラドキドキ、ルドルフ・ヌレエフが生き延びたことは知ってはいるが、やはりハラハラ。
フランスのダンサーたちの連携によって、特にマルローの死んだ息子の婚約者であったクララ・サンの働きによって、ヌレエフの亡命は成功する。
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『ホワイト・クロウ 伝説のダンサー』、監督は、レイフ・ファインズ。
ホント小説みたいな話であるが、監督のレイフ・ファインズは、できるだけ史実に忠実に作った、と語っている。まさに、「事実は小説よりも奇なり」である。
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ウラルの東で生まれたヌレエフ、レニングラードのバレエスクールへ入ったのは17歳、遅かった。
ヌレエフ、高慢、わがままであるが、自己実現意欲は強い。頭角を現しレニングラードのキーロフバレエ(現在のサンクトペテルブルグのマリインスキー劇場バレエ)に迎えられる。なお、サンクトペテルブルグのマリインスキー劇場バレエは、モスクワのボリショイ劇場バレエやパリのオペラ座バレエと並ぶ世界最高峰のバレエ団である。
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パリでの23歳のヌレエフ。
扮するのは、現役のプリンシパル、オレグ・イヴェンコ。
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映画終盤、物語は一気にハラハラドキドキのサスペンスとなっていく。
キーロフバレエの一行がロンドンへ飛び去った後、ひとり残されたルドルフ・ヌレエフは、ソ連大使館員やKGB要員から無理やりモスクワへ連れ帰られようとする。その空港へフランスのダンサーたちから連絡を受けたクララ・サンが駆けつける。
ソ連大使館員と、空港警察を後ろ盾にしたクララ・サンたちとの息づまる舌戦がある。
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クララ・サン、ヌレエフの耳元でこう語る。
「あなたは、どうしたいの」、と。「自由になりたい」、とヌレエフは答える。
1961年、ルドルフ・ヌレエフの西側世界への亡命は成った。
このことがなければ、「ニジンスキーの再来」といわれるルドルフ・ヌレエフの伝説はなかった。
その後のルドルフ・ヌレエフ、イギリス・ロイヤルバレエのマーゴ・フォンテーンと組み、20年近く圧倒的な踊りを見せつけた。また、幾つもの作品の振付も。
その後は、パリ・オペラ座の芸術監督、アメリカその他にも。西ヨーロッパ、特にイギリス、フランスにおいてのヌレエフ人気、ダントツ、別格である。
1993年、ルドルフ・ヌレエフは死ぬ。死因はエイズ。享年54。


27、8年前、広告代理店の招待でイタリアを旅した。10数人の団体旅行。ミラノに着いた時、スカラ座の当日券があるということを聞いた。
夜の予定をキャンセルし、スカラ座へ行った。スカラ座自体はすぐ分かったが、チケット売り場を探すのに往生した。が、チケットは買えた。一番安い天井桟敷。確か日本円で千円もしなかったような覚えがある。幕間には、シャンパンと手軽なつまみを求めバルコニーへ出る。バルコニーでタバコも吸う。
なるほど、これがヨーロッパのオペラハウスか、バレエ劇場か、と思った。
その折り求めたパンフレットというか100数十ページもあるので書籍と言ってもいいが、それが出てきた。
書中、1993年6月5日という書きこみがある。この日にスカラ座へ行ったものと思える。丁度27年前となる。
実は、この日を境に私の夜の過ごし方は変わった。それまでの悪所行きは、一切合切ピタリとなくなった。夜の過ごし方が高尚になった。
スカラ座の後、パリ・オペラ座、ベルリン、ウィーン、プラハ、ブダペストの国立オペラ座、モスクワのボリショイ劇場、サンクトペテルブルグのマリインスキー劇場、その他のオペラハウスその他、高尚でないまでも悪い色のないところへと。
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ヌレエフは1993年の初めに死んだ。私がスカラ座へ行ったのは、1993年6月。
その時のスカラ座の分厚いパンフ、その表紙に「ヌレエフへのオマージュ」とある。
下の方には、その時の演目である「白鳥の湖」の文字が。
この書の中を繰っていく。
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ヌレエフ、英ロイヤルバレエのマーゴ・フォンテーンと『白鳥の湖』を踊る。
ルドルフ・ヌレエフ亡命1年後の1962年である。
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タタール人の血を引くルドルフ・ヌレエフ、西ヨーロッパの人たちはこの顔つきに弱い。
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ヌレエフだ。
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ニジンスキー振付け『バラの精』のヌレエフ。1982年。
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スカラ座のパンフ、どこまで行ってもヌレエフ。
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1995年8月10日と書きこみのあるパンフレットが出てきた。夏休みに行ったようだ。
イングリッシュ・ナショナル・バレエのルドルフ・ヌレエフ版の『ロミオとジュリエット』。
劇場は、Royal Festival Hall。
ヌレエフのこの振付、バレエとしては過激だな。
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右上、「イングリッシュ・ナショナル・バレエ」の下に「パトロン」と記されている。
”HRH THE PRINCESS OF WALES”、と。
この時、1995年のプリンセス・オブ・ウェールズは、ダイアナ妃であった。
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中にもヌレエフのことが。
ルドルフ・ヌレエフ、1938年3月17日、イルクーツクの近くのシベリア鉄道の中で、タタール人の両親のもとに生まれた、とある。
シベリア鉄道、タタール人、いや、得も言えないな。
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1997年12月29日と書きこみのあるパリ・オペラ座のパンフ。やはり、100ページ余ある。
この時の出し物は、ヌレエフ振付の『ライモンダ』。
当然、パンフ中、ヌレエフのライモンダのことが触れられる。