一宿一飯のお礼佛。

東博、「国宝 大神社展」の前の特別展は、「飛騨の円空展」であった。この春、1月から4月にかけて催された。3か月ほど前に観に行ったが、他事に紛れそのままになっていた。「神」を記した繋がりで、「佛」も記しておこう。
江戸時代の遊行僧・円空、寛永9年(1632)美濃国に生まれ、元禄8年(1695)64歳で入定した。その生涯、まさに旅から旅の旅がらす。
何十年も前、飯沢匡というもの書きがいた。飯沢匡、こんなことを言っている。
<私にいわせると、円空は宗教御用聞きであった。各戸に「仏像のご用はありませんか」と歴訪したと思われる>(『円空の旅』、昭和49年、毎日新聞社刊)、と。
飯沢先生、少し酷い言いようではないかな、とも思うが、生涯に12万体もの像を刻んだ、という円空伝説を考えれば、そういう見方もあながち外れてはいないかもな、とも思えてくる。

3月下旬の東博正門前。
「飛騨の円空 千光寺とその周辺の足跡」、と謳っている。
飛騨高山の千光寺には、63体の円空仏が残されている。その内の61体を含む約100体の円空仏が集められた。

本館大階段の天井から吊られた垂れ幕。

≪三十三観音立像≫。
<木を断ち割った切断面を生かして眉目を線で表わし、鼻口を簡潔に彫る>、と東博の説明にある。たしかに、そう。

チラシを複写した。
左の3体は、左から制○(口偏にモ)迦童子像、不動明王像、衿羯羅童子像。
この3体の組合せ、数多く彫られている。
円空没後300年にあたる1994年、朝日新聞主催の大規模な円空展が小田急美術館で催された。230件に及ぶ円空仏に加え書、絵画、その他資料を含めた大きな円空展であった。
そこにも、不動明王を」真ん中にし、左に制○(口偏にモ)迦童子、右に衿羯羅童子の像が幾つもあった。
その折りの図録がある。幾つかを複写する。

これも。

これも。

これも。

みんな不動明王を真ん中に挟んだ童子の像。
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この春の東博に高さ2メートルを超える金剛力士像が展示されていた。金剛力士像、仁王像である。その吽形像。円空が立木に刻んだ仏像である。
これは、その頭部。
この像、飛騨高山の千光寺に現存する。
昭和63年、NHKで放映された早坂暁の脚本がある。そこにこの千光寺の仁王像が出てくる(『円空への旅』 昭和63年、日本放送出版協会刊)。
その書から少し引いてみよう。
<立木にはしごをかけて、登っていく。千光寺の俊乗和尚が見つめている。     円空「(下の和尚に)ほんとうに、よろしゅうございますな」     和尚「ああ、立木に、そのまま仏を彫る。つまりは、生きた木に刻み込むわけじゃ。生き仏とおんなじじゃろう」     円空「和尚はようわかっておられる」     両手を合わせ念じる円空。・・・・・>。
暫らく後、こういう文言が出てくる。
<ノミを振るう円空自身の顔が仁王のようだ>、との。
円空、一心不乱に彫っていたこともあり、一宿一飯のお礼として刻んでいたこともあるんだ、おそらく。