「賛美小舎」 上田コレクション(続き)。

上田さん夫妻、共に高校の先生をしてきたそうである。まあ、普通の勤め人。このこと、ニューヨークのハーブ&ドロシーとよく似ている。郵便局員であったハーブ、図書館司書であったドロシー、こちらもごく普通の勤め人だ。似ている。
ハーブとドロシーの夫婦には子どもがいなかった。上田さん夫妻、こう記している。<子供に恵まれなかった私どもの存在のしるしを残し、社会に連なりたいと願っています>、と。収集品を公立美術館へ寄贈する時の心の内。この点でも、ニューヨークのハーブ&ドロシーと日本の上田夫妻は似ている、と言える。
収集品がコンテンポラリー・アートに特化していることも同じである。
ただ、異なる点もある。
ハーブ&ドロシーの収集にあたっての基本は、自分たちの稼ぎで買えるものであることと、1LDKのアパートに置けるもの、という2点であった。どうしても、小さな作品ばかりとなる。その点、どうも上田夫妻は異なるようである。
横浜美術館の説明書には、「上田邸」という言葉が幾つも出てくる。”宅”でなく”邸”なんだ。収集品も大きなものが随分ある。それらを展示、収蔵するには、相当大きな家が必要であろう、と思われる。また、共に高校教師だったということだが、教師の給料だけで収集していたのか、どうかな、ということも考える。”コンテンポラリーに関心を持つ前は、骨董の収集をしていた”、ということにカギがあるのかもしれない。骨董が原資に、ということも。
それはともかく、上田夫妻、”市民一人一人が美術文化を支える「美術民主主義」”、ということを言っている。自らは、これという美術館10館にコレクションを寄贈し、範を垂れた。立派な行為である。
上田コレクション、歩を進めよう。

柳幸典(1959年生まれ)作≪パシフィックーシャタードブルー≫。
シルクスクリーン、モスリン、ガラス板、ベニヤ板。

同じ柳幸典作≪パシフィック K100BーM6≫。
ブロンズ、スティール。
柳幸典のこの2点、共に”パシフィック”という言葉が入っている。柳、1959年生まれ、完全な戦後派だ。しかし、その脳裏には、太平洋戦争がある。
このブロンズとスティールでできた作品、ゼロ戦に見える。靖国神社、遊就館に展示されている零式艦上戦闘機・ゼロ戦、それを凝縮すれば、こうなる。
ゼロ戦、67年を経て、コンテンポラリー・アートとなった。

尾長良範(1962年生まれ)作≪ZONE≫。紙本着色。

間島領一 + 森村泰昌(1947年、1951年)のコラボ。
上は、≪修繕アート ”相愛”≫。下は、≪修繕アート ”降臨”≫。カラ−プリント、コラージュ。

大田三郎(1950年生まれ)作≪Pueraria lobata Ohwi,15 Nov.1996, Yamakita Tsuyama Okayama≫。木葉、スタンプ、紙。
枯れた葉っぱ、美しい。

横浜美術館の顔のひとつ、イサム・ノグチ作≪真夜中の太陽≫の赤、黒御影石の輪っかの中に見えている円盤のようなものは何だ。

石原友明(1959年生まれ)の作品である。
中央の円盤状の立体は、≪I.S.M.(光)≫。発泡スチロールと牛皮で作られている。
後方左の大きな平面は、≪PlanーI.S.M.(#10)≫。ゼラチン・シルバー・プリント、木炭、紙、コラージュ。
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これも石原友明の作品、≪Untitled≫。真鍮、本(アイザック・ニュートン『光学』。
何と言おうか。
デュシャンにしては、「ずいぶん遅れてきたんじゃないの」、と言わざるを得ないが。

上田コレクション、横浜美術館の大きな展示室を3室使っていた。
これは3つ目の展示室の左側。

こちらは、右側。

大きな作品である。これは、その一部。
左の壁面いっぱいを使っているマコト・フジムラ(1960年生まれ)作≪復活2≫。岩絵具、膠、麻紙、箔、砂子。

これも、マコト・フジムラの作品≪Columbine≫。岩絵具、膠、瓦。
2000年(平成12年)の作品であるが、はるか昔の、という思いを抱く。

岡村桂三郎(1958年生まれ)作≪舎≫。岩絵具、膠、板、縄。

これも、岡村桂三郎の≪豊穣の神≫。岩絵具、膠、板、鎌。
上田コレクション、コンテンポラリーになる以前、日本画を学んで、という作家が多いのが面白い。何人もの作家、日本画を学んだ後、海外で生活をしている。それがプラスに働いている、と思う。
きっと、そう。
受け継いだ土着のものを、異なった風土の中で揉み込むことが大切なんだ。おそらく。