浅草界隈(続き)。

四半世紀前、上野に近い浅草の永住町の寺の息子である永六輔から、「盛り場がさびれたり、新しくできるのは世の中の移り変わりとして当然なのだから」、と言われた加太こうじ、浅草が寂れていくことに淋しい思いを抱いている。
何しろ、浅草生まれの浅草育ちなんだから。
この頃には、隅田川も汚れている。浅草生まれの人間にとっては、悲しく淋しい限り。
<川に面した小間で芸者相手に盃をくみかわしている。川のおもてには光が映じ、銀色に輝いている。どこからともなく三味線の音がもれて来る。そのうち窓の下には、新内流しの小舟が横づけになる。川風に涼みながら耳をかたむけている。そんな粋筋の客人が多かった>(一瀬直行著『浅草走馬灯』 昭和53年、光風社書店刊)。
戦前、桜の頃の隅田川の様子である。
一瀬直行、明治37年生まれ、昭和13年には芥川賞の候補にもなっている。加太こうじの『浅草物語』で初めて知った。
浅草生まれで浅草育ちの加太こうじ、浅草のことごとを教えてくれる。『浅草物語』の「まえがき」にこう書いている。
<浅草生まれで、浅草について書いたのは一瀬直行と沢村貞子と久保田万太郎だけといってよかった。・・・・・浅草生まれで、浅草の記録を書いたのは今のところ、前記三人に私をくわえ四人しかいない。私はテレくさいが、・・・・・>、と。
四半世紀前、一瀬直行は隅田川の汚染を嘆き、昔はこうだったのに、こんな粋な川だったのに、と言っているんだ。
つい先日、3月半ばの隅田川はこうだった。

この日、地下鉄で浅草へ行った。
吾妻橋の上から隅田川を見る。
どのような舟かは知らないが、小舟が走る。すぐ先の東武鉄道の鉄橋には、先般改名された東武スカイツリー線が走る。

観音さまの方へ歩く。
デンキブランの神谷バー。デンキブランはさほど美味いものではない。しかし、神谷バーは浅草1丁目1番1号なんだ。

雷門通りへ。
人力車には若い娘さんの二人連れ。

人力車の料金表があった。
日本で人力車に乗ったことはない。しかし、インドやネパールでずいぶん多く人力車に乗っている私には、ヒェー、という料金に思える。百倍とは言わないまでも何十倍。もちろん、彼我の貨幣価値を勘案しても。

雷門。
     かなしみに堪へがたければ走りたり雷神門に霰たばしる     吉井勇
吉井勇、何と言っても、
     かにかくに祇園は恋し寝るときも枕の下を水の流るる
が頭に浮かぶ。
でも、こういう”かにかくに”もある。
     かにかくに無頼の子とも酒酌みし浅草の夜のなつかしきかな     吉井勇
”かにかくに”、祇園であり浅草なんだ。
<雷神門とは、浅草寺門前町から浅草寺へはいって行く仲見世の入口にある山門である。門の左右に風神雷神の像がそれぞれあったが、右側の雷神のほうが名前の感じがいいので雷神門といわれた。・・・・・>、と加太こうじの書にある。

仲見世だ。
ウィークデーの日中でも人出は多い。

新仲見世通り。
浅草らしい通りである。でも、左の方の珈琲屋の暖簾には、”スカイツリーが見えます”と書いてある。こんなに建てこんでいるところでホントかな。


仲見世の裏。
そば屋や食堂がある。

伝法院通りの仲見世から隅田川側を見る。スカイツリーが見える。当然のこと。

その反対。伝法院通りの六区側を見る。
今日は、地下鉄で浅草へ下りた後、ギャラリー・ブレーメンハウスまでを辿った。
ブレーメンハウスの後半は、明日。