浅草界隈(続き×2)。

ギャラリー・ブレーメンハウスへ戻る。
このギャラリー、2階がある。細い木の階段を昇る。しかも、靴を脱いで。元々ごく普通の町家なんだ。だから、1階はまだしも、2階へは靴を脱いで上がるのが当たり前、という次第。
階段を上がると、短い廊下でつながれた部屋が2間ある。

そのひと部屋。6畳足らずの洋間。丸テーブルと椅子は以前から使われていたものか。
壁面に、隅田川万華鏡会の皆さまの「浅草界隈」の作品が掛かっている。

こちらは和室。6畳の間。
平面作品ばかりじゃなくモビールも。たしか、≪浅草サンバカーニヴァル≫というタイトルであった。

右、増田考機作≪雷門≫。左、小谷野なつの作≪笑う角に福来たる(B)≫。
共に人力車が描かれている。「ヘイ、ユー」って誘っている若いイケメンの人力車引きもいるようだ。

紀平良治作≪三社祭と雷門≫。
柾目、そのままの額、浅草らしくて粋だねー。
三社祭である。
<三社祭というと、どこかあだっぽくて、ツンと粋で、おこりっぽい言葉のひびきを持っている。火事は江戸の華で、そしておまつりと喧嘩の二つはつき物で、・・・・・>。浅草で生まれ、大震災の時と戦災で焼け出された時以外、浅草を離れたことがない、という一瀬直行は、昨日触れた『浅草走馬灯』の中で述べている。
加太こうじが浅草生まれのもの書き4人の一人にあげる沢村貞子も、もちろん三社祭について書いている。
<「ほーら、お御輿のお通りよ」 煮かけたこんにゃくを放りだして駆け出して、・・・・・。うっかり二階の窓からのぞいたりすると、「女のくせに、御輿を見おろすとは、生意気なオカチメンコだ」 と怒鳴られるし、もし、まかり間違ってお御輿にさわったりしたら、それこそたいへん、「女がさわった、御輿がけがれた、早くきよめろ、塩をもってこい」などと、散々な目にあったものだった。・・・・・>(『私の浅草』 昭和53年 暮しの手帖社刊)、と。
お神輿である。
沢村貞子はお御輿と書いているが、御神輿であり、御御輿である。
三社祭、私も行きあったことがある。しかし、他所者と浅草生まれの浅草育ち、三社祭の神輿への感覚、天と地の隔たりがあろう。

ギャラリー・ブレーメンスハウスを出、伝法院通りへ戻る。六区の方へ振り向けば、こういう情景。
左は大黒屋。浅草を代表する天ぷら屋であるが、一度、天丼を食った後、胸がつかえ、それ以来行かなくなった。もちろん、その原因は、消化器の弱い私にある。大黒屋に責はない。食にうるさいあの荷風も足を運んだ店であるし。
それよりも、伝法院通り、小さな小間ながら、いかにも浅草といった店が並ぶ。櫛、簪屋、呉服屋、暖簾屋、手拭い屋、古道具屋、半纏屋、扇子屋、佃煮屋、・・・・・。
右端のキクヤ商店の看板には、赤い字で大きく”ジャンパー、ズボン”と書いてある。伝法院通り、文字通り、”らしい”。

客待ちの人力車もいる。
人力車を運営する会社、どうも幾つもある模様。人力車引きも男ばかりじゃない。女の子もいるようだ。

鼠小僧次郎吉の手配書、人相書きの高札があった。
鼠小僧次郎吉、市中引き回しの上、獄門となった、と思っていたが、浅草では今だ追われる身であるらしい。
それより、左に「やまとみ」という文字が見える。

「やまとみ」、呉服屋なんだ。”趣味の呉服・踊り衣装 お誂え御承”が看板に。
それにしても、いかにも時代がかった面構え。
<二日目の夜、・・・・・。ある呉服店では、例年の通り当夜、店内の品物を片づけ、町内の顔役を集め、芸妓を呼んで酒盛りが始まる。旦那連のかくし芸と芸妓の踊りを見物する人が道を塞いでしまう>。
一瀬直行著『浅草走馬灯』の「三社祭」の一節。
この「やまとみ」も、その面構えから見て、そうであったのではなかろうか。今は知らず。

宝蔵院門まで戻る。
”小舟町”の大きな提灯を通して本堂が見える。

小舟町”と書かれた大きな提灯の裏側。
商店、商会、興業、興産などといった法人の寄進者の中、案外個人名が多い。

浅草寺本堂。
夕刻で扉は閉まっているが、お参りの人の列は続いている。
私も並び、お参りした。願ったのは、孫とその一家の幸せのみ。どのような寺社であろうと、このところの定番である。
それはそうとして、浅草生まれの浅草育ちの沢村貞子の『私の浅草』から。
<横町から観音裏の大通りへ出ると、・・・・・、「バカヤロー、気いつけろ」と、父に初叱言をもらったりしたものである>、と。「初詣で」の章。
沢村貞子の父親は歌舞伎作者である。色男でもあったらしい。
<私の母が嫁入りした日に、鰹節の箱の中へ出刃庖丁をいれて贈ってきたのは、浅草で指折りの売れっ妓だった、というのが、父の自慢話の一つだった>、と記す。
<スラリと背が高く、面長、色白で昔風の二枚目の父に入れあげる女たちがそこここにいて、遊びに不自由はしなかったといういう>、ともある。
『私の浅草』の中の「たかが亭主の浮気」の一節。
それにしても沢村貞子、上手い書き手である。面白い。あとひとつ引いてみよう。少し長くなるが。
大正4年の丁度今頃、沢村貞子、浅草尋常小学校へ入学した。その折りのこと。
<やがて、受持の剣持という女の先生が男の子の担当の先生を紹介した。「よござんすか、この男の先生が、奥貫先生。私たち二人は、これから仲よく、みなさんと一緒に勉強します。わかりましたね。わかった人は手をあげて、ハイといいなさい>。
<前のほうで一生懸命きいていた私は、はりきって手をあげた。はりきりすぎて、余計なことまで言ってしまった。「ハイ、わかりました。剣持先生と奥貫先生は、おかぼれですね」 呆気にとられていた二人の先生は、しばらく黙っていた。やがて、女の先生が恐い顔をして、私をみつめてゆっくり言った。「そういうことを言うのは・・・悪い子です」 悪いことを言ってしまったらしい・・・・・>。沢村貞子、書き手としても、名人芸。

宝蔵門の庇を通してスカイツリーを見る。
一昨日の山本宣史の構図である。
この日は3月15日であった。浅草寺、3月18日は本尊示現会。
3月18日、推古天皇36年(628年)、浅草寺の本尊・聖観音菩薩がこの世に現れた日。お祭りである。
向こうにはスカイツリーが見えているが、手前には金一封を贈った名が掲げられている。
梅園、熊野屋、神谷バー、常盤堂雷おこし、釜めし春、ROX、今半、天ぷら三定、大黒屋。ROXを除けば、浅草の食の文化を受け継ぐ店ばかり。
それもこれも、浅草だ。