紅白梅図。

今の時季、時節のというか、頃合いのというかのテーマに、「紅白梅図」がある。初詣での東博にもある。二曲一隻の紅白梅図屏風。

ずいぶん地味なというか、枯れた紅白梅図だな。
絵描きの名は、山田抱玉。ンッ、知らない名である。説明書きにはこうある。
<抱玉は、江戸で琳派芸術を開花させた酒井抱一の弟子。抱一は亡くなるまでの20年間、上野山下の根岸大塚村に「雨華庵」を住まい(兼アトリエ)とし、抱玉ら直門の弟子たちはここで学んだ>、と。
山田抱玉、酒井抱一の弟子なんだ。師匠の名を一字貰っているんだな。その割には、名前を聞いたことがない。酒井抱一の弟子といえば、まずは鈴木其一である。其一の他にも名の知られた人はいるが、抱玉の名は、聞いたことがない。
仲町啓子という琳派の専門家がいる。『美術館へ行こう 琳派に夢見る』(1999年、新潮社刊)を著し、『すぐわかる琳派の美術』(2004年、東京美術刊)を監修し、トラディショナルなムック、「別冊太陽」の『江戸琳派の粋人 酒井抱一』の監修者でもある。
仲町啓子が著したり監修したりした書には、琳派の絵描き、また、その作品がさまざま出てくる。しかし、山田抱玉の名や作品は、まったく出てこない。
抱玉の師の抱一は、派手な人であった。
何と言っても、生まれが違う。姫路の殿様の子供なんだ。大名の息子。長男ではないから、気楽なところもあった。江戸後期の多くの文人墨客と交わった。絵描きでもあるが俳人でもある。文化人なんだ。当然のこと、吉原へ繰り出しての放蕩三昧もする。出家して坊主にもなる。
それより何より、酒井抱一、素晴らしい絵描きとなる。抱一、凄い絵描きである。
琳派、俵屋宗達や本阿弥光悦から尾形光琳、そして酒井抱一へと引き継がれた。それぞれ、およそ100年の時を経て。

山田抱玉の「紅白梅図屏風」、少し拡大する。
これ、琳派かな、とも思う。紅白梅図、誰しも、あの熱海のMOA美術館にある尾形光琳の国宝、「紅白梅図屏風」を思うもの。光琳のそれと抱玉のそれとは、ずいぶん違う。
光琳の屏風は、二曲一双。抱玉の屏風は、二曲一隻。光琳の作は、何より、紅梅と白梅の間に川が流れている。その川は、これぞ琳派という意匠。国宝であることに文句はない。日本美術の極北のひとつである。
尾形光琳の「紅白梅図屏風」、毎年、もう間もなく、今月末か2月始めにMOA美術館で展示される。この二曲一双の紙本金銀地着色の屏風は素晴しい。余計なお世話ながら、未だ見ていない人は、今、熱海へ行ってはいかがか。
しかし、少し引き下がって考える。
詳しいことは何も分からない山田抱玉という絵描きの描いた「紅白梅図」、琳派にしては地味ではあるが、味があるように思えてくる。好きになった。

今の東博、山田抱玉の「紅白梅図」の横には、これがある。その前には、多くの人がいる。
尾形光琳の「風神雷神図」。
重文だ。俵屋宗達の「風神雷神図」を受け、尾形光琳が描いた「風神雷神図」である。
その後、酒井抱一が同じ「風神雷神図」を描く。そして、抱一の弟子の鈴木其一も、「風神雷神図」を描いている。山田抱玉の「風神雷神図」は知らない。無くなったかもしれないが、おそらくあったのじゃないか、と思われる。そう思いたい。
大鵬が死んだ、というテロップが流れた。
凄い横綱であった。これぞ横綱、という相撲を取った。強かった。おそらく、史上最強であろう。
横綱へ同時昇進の柏戸は、すでにいない。大鵬も病気を抱えていた。一度、慶応病院の整形外科で会ったことがある。車いすに乗っていた。奥さんらしき人と付き人らしき若い男がついていた。私と同年代なんだ。
大島渚とは趣を異にするが、やはり寂しい。