佐藤一斎の書初め。

私の住む所、大規模なアパートなので少し広いロビーでは、今、子供たちの書初めが掛けられている。
天保15年の元旦、江戸時代の儒者・佐藤一斎も書初めを為した。

佐藤一斎筆「甲辰元旦試筆」。
説明書きには、こうある。
<試筆は新春に字を書くいわゆる書初め。儒者佐藤一斎が73歳の年頭に、たまたま壬辰年に生まれて、甲辰年の戊辰の日に当たることを取り上げ、月日の過ぎる速さ、年齢に対する感慨をしたためた>、と。
今年は巳年。たしかに、そうである。でもこれは、十二支の巳。その十二支に十干(甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、壬、癸)を組合せたもの、これがいわゆる干支となる。12と10の最小公倍数、60で一巡りする。いずれにしろ、古代中国で考えられたものの捉え方。
佐藤一斎、安永元年(1772年)の生まれである。上の説明書きにある”壬辰年に生まれて”というのは、その年の干支が「壬辰(みずのえたつ、じんしん)」であることを示している。そして、この書初めを書いたのは、天保15年(1844年)で、その年の干支は「甲辰(きのえたつ、こうしん)」であった。
因みに、今年2013年の干支は、「癸巳(みずのとみ、きし)」である。
それはともかく、佐藤一斎といえば「三学戒」である。
   少にして学べば、則ち壮にして為すこと有り。
   壮にして学べば、則ち老いて衰えず。
   老いて学べば、則ち死して朽ちず。
            (『言志晩録』第60条)
佐藤一斎、若い時はもちろん、壮年になっても、それどころか老年になっても学べ、勉強しろと言っている。学べ、学べである。だから、73歳になった時の書初めにも、時間は速く過ぎ去ってしまう、と記している。
勉強ばかりで疲れないか、佐藤一斎。
そんなヤワな男じゃないんだ、佐藤一斎。文政13年(天保元年、1830年)、『言志録』全246条が上梓される。嘉永3年(1850年)、『言志後録』全255条が上梓される。同時に『言志晩録』全292条が上梓される。そして安政元年(1854年)、『言志耊録(てつろく)』全340条が上梓される。
総数1133条に及ぶ佐藤一斎の箴言録、『言志四録』として知られる。
原文で読み難い人には、現代語訳の書もある。私もそう。佐藤一斎著、岬龍一郎編訳、『言志四録 現代語抄訳』(PHP研究所、2005年刊)を読む。
ありきたり、と言えばありきたり。当たり前、と言えば当たり前。そうだよな、といった箴言が連なっている。でも、やはり、そうなんだ。だからこそ、多くの人の心を捉えたんだ。
岬龍一郎、「まえがき」の中でこう書いている。<驚くべきは、その門下生たちである。その数6000人ともいわれているが、・・・・・>と。
直接の弟子には、佐久間象山、横井小楠、渡辺崋山などがいる。佐久間象山門下からは、勝海舟、吉田松陰といった凄い男が輩出する。長岡の河井継之助も。そして、吉田松陰の「松下村塾」からは、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋ら維新回転の志士たちが生まれた。
佐藤一斎、その中枢にいたような男。凄いヤツである。学べ、学べ、勉強しろ、勉強しろ、と言い続けた。
そうは言っても、『言志耋録』第328条には、”20代から30代、40代から60代、働き盛り。70歳から80歳、心身ともに衰えて・・・・・”という記述がある。
『言志晩録』第60条の”・・・・・。老いて学べば、則ち死して朽ちず”、とは矛盾する。しかし、それはどうこう言うほどのことではなし。いいんじゃないか。
それより、佐藤一斎が書いている”73歳の年頭に”、という言葉である。
江戸時代は、数えで何歳である。生まれた時に1歳、年が改まって2歳となる。天保15年、佐藤一斎は数えで73歳となった。
実は、私、今年の誕生日が来ると満72歳となる。ということは、この元日で数え73歳となったんだ。佐藤一斎が天保15年に試筆をしたのと同じ歳。
彼我の差、べらぼうにあるが、そんなことはどうってことなし、と思うことにする。