いろは。

やっぱり帝京が強かったり、初雪が降ったり、大島渚が死んだり、といったことなどがあり、東博での「博物館に初もうで」、一向に進まぬうちに一月も半ばを過ぎてしまった。今日から数日、初詣でがらみに触れよう。
日常の私たち、どういう文字を使っているか。漢字、ひらがな、カタカナ、それにローマ字、4つの表記法をないまぜにして文章を綴っている。中で年の初めに相応しいのは、ひらがなの「いろは」。いろはの「い」は、初っぱなの文字。年初めの文字だと言える。
貫名菘翁の紙本墨書「いろは屏風」。

菘翁(すうおう)、江戸末期の人。説明書きには、
<菘翁は阿波(徳島)の人。名は苞(しげる)、海屋(かいおく)などの別号がある。京都の儒者、画家として知られたが、晩年は書をよくし、市河米庵、巻菱湖とともに”幕末の三筆”と称された。・・・・・>、とある。
六曲一双の最後の一扇、「もせす」の後には、「八十三菘翁」と記されている。この書、菘翁、83歳の筆なんだ。
<1079(承暦3)年に『金光明最勝王経音義』という『金光明最勝王経』の注釈書が書写されているのだが、ここに10世紀に成立したと思われる「いろは歌」と現在の五十音図の原型ともいえるものが登場する>(山口謡司著『日本語の奇跡 <アイウエオ>と<いろは>の発明』 新潮新書、2007年刊)。
山口謡司、同書の中で、さらに、
<・・・・・、いずれにしても西大寺にいた僧侶たちは、『金光明最勝王経』を読誦して国家鎮護を祈願しながら、ヲコト点、「いろは歌」、さらには五十音で書き表されるカタカナの誕生をここに刻んでいったのである>、と記す。
     色は匂へど 散りぬるを
     我が世誰ぞ 常ならむ
     有為の奥山 今日越えて
     浅き夢見じ 酔ひもせず
案外、濁音が目につく。奈良時代までは静音であったものが、平安時代頃から濁音となったものだそうだ。
<ちなみに、平安後期、新義真言宗の祖である覚鑁(かくばん)は『密厳諸秘釈』の中で「いろは歌」を注釈し、これは世に「無常偈」として知られる『涅槃経』の偈「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽・・・・・」の意であると説明している>、とも記されているので、これ以上は記さない。多くの人々によく知られている意とさほど変わらない。
なお、「いろは歌」の作者については、<吉備真備が作った、あるいは空海が作ったという伝説もあるが、・・・・・誰が作ったものであるかはよく分かっていない>、とも。
「いろは」、また、日本語を考えた研究書といった山口謡司の書から、少し趣きを異にする。戦後の文学者について。
戦後の文学者、もの書きのこれという人を考える。
ノーベル賞を取りそこなった谷崎や荷風、やや長生きをしてノーベル賞を取った川端康成などは、戦前派として省く。ベスト5やベスト10は、誰しもが考えるように決まってくる。
三島由紀夫や、吉行淳之介や、ノーベル賞を取った大江健三郎や、それまでに死んでしまった中上健次や、これから取るであろう村上春樹や、といった連中は決まりであろう。
ベスト10になるとどうなるか。それぞれの人の思いが入った人選となるだろう。開高健を思う人、深沢七郎を思う人、遠藤周作を思う人もいるかもしれない。
一挙にベスト50にしてみるとどうなるか。より極私的となる。
私の場合、戦後の文学者50人となれば田中小実昌が入る。コミさんだ。何十年か前、新宿ゴールデン街の飲み屋でよく行き合った。「バーまえだ」では、特別な存在であった。
田中小実昌、大傑作を書く。『オホーツク妻』だ。これでコミさんも直木賞は確実、と言われていた。ところが、取れなかった。
この時の「まえだ」のママの荒れようは凄まじかった。「これで取れなかったら、コミは一生芥川賞も直木賞も取れない」、と凄まじい表情で言った。勤め人にはなっていたが、ゴールデン街の「まえだ」には四六時中行っていた私、「まえだ」のママ、前田孝子さんの放った声、今でも覚えている。コミさん、その後、直木賞を取ったが。
コミさん、終戦時は兵隊に取られていたり、知らない間に東大へ入学(そんなことはないだろう、と思うが)していたり、その後、英語の通訳になったり、バーテンになったり、テキ屋の世界に入り全国あちこちの高市(たかまち)で商売をしたり、ストリップの芸人になったり、易者になったり、ヤクザの世界にいたり、さまざまなことをなして生きてきた。
そのコミさん、田中小実昌に『いろはにぽえむ』(社会思想社、現代教養文庫、1991年刊)という書がある。コミさんの若い頃のことごとが描かれている。面白い作品だ。
「いろは」がらみで、つい記した。