60’s、抱き寝の長ドス。

60’s、シックスティーズ、1960年代、若い私が寄り添っていたものは何だったかな、と考える。
文学では、やはり三島由紀夫。それに野坂昭如。絵描きでは、何と言ってもギューちゃん・篠原有司男。歌い手では、終わりの方ではあるが藤圭子。皆んな、この頃の私の「抱き寝の長ドス」だ。で、シックスティーズ、60年代の映画の「抱き寝の長ドス」は、大島渚に決まっている。
大島渚、松竹入社後5年で監督として一本立ちをした。私が知るのは、1960年の「青春残酷物語」、炎加世子が強烈な「太陽の墓場」以降の作品。「日本の夜と霧」で松竹を離れ、大江原作の「飼育」、「日本春歌考」、「忍者武芸帳」、「絞死刑」、「新宿泥棒日記」等々のシックスティーズ、60年代の大島が、やはり頭に残る。
今日、その大島渚が死んだ。長く病の床に臥せっていたが、遂に。
これで、大島が松竹をやめた後創った「創造社」の人たち、石堂淑朗も、小松方正も、戸浦六宏も、渡辺文雄も、佐藤慶も、みないなくなってしまった。時代の節目であろう。
大島渚と同じ年に松竹に入った男に山田洋次がいる。
彼らの入社5〜6年後、大島渚入社の前後に入社した吉田喜重、篠田正浩は、大島渚と共に、「日本のヌーベルバーグ」と呼ばれた。確かにそうであった。大島渚はもちろん、吉田喜重や篠田正浩は知ってはいても、山田洋次は知らなかった。
今、山田洋次は日本芸術院会員であり、文化勲章の受賞者であり、日本人なら誰しもが憧れる横綱審議委員会の委員にもなっている。かてて加えて、来週あたりからは、日本の歴代監督として最も著名な小津安二郎の「東京物語」へのオマージュ作、「東京家族」も公開される。
山田洋次が日本の山田、となった時に、日本の大島であった男は、旅立った。
無念かどうかは、解らない。でも、少なくともこうは言える。
今、世界のキタノ、となっている北野武。それがあるのも、大島渚がいたからこそ、と。
1960年代、その男は、私の「抱き寝の長ドス」であった。