早稲田美研60−70 第8回展。

早稲田美研60−70展、3年に一度から2年に一度となり、さらに今は1年半に一度の開催。第8回展となった。

いつも通り神田駿河台下の文房堂ギャラリーで。今週いっぱい。

7日、私が着いた時にはオープニングが始まっていた。

早稲田美研の私たちより上の世代のグループ、先輩方の顔も見える。

しかし、今までに比べ人が少ない感がある。
毎回お出でになっていた何人かの目立つ人の姿がないからだ。
ご亭主は静かなお人なのに、ご本人はガンガン酒を飲み周りの誰彼に話しかけるあのマダムの姿もない。石田、知らせなかったのか。寂しい。前回、山宣の弟が連れてきた銀座のクラブのママの姿もない。

皆さま、静かに作品を眺める。

今回の幹事、オープニングの料理は向かいの放心亭からの出前としたそうだ。

直木三十五のことを調べているという私たちより少し後の世代の美研の人、こういうチラシを配ってくれた。
芥川賞、直木賞と言われる。芥川龍之介のことはよく知られているが、直木三十五のことはほとんど知られていない、と話す。また、読まれてもいない、と。確かにそうだ。私も直木三十五の作品、読んだ記憶がない。
その直木三十五の「直木」、戸籍上の姓である「植村」の「植」を分解したものであるそうだ。
それより、直木三十五、早稲田の学生時代に美術研究会の幹事をやっていた、という。その美術研究会・美研と後年の私たちの美術研究会・美研が繋がりがあるかどうかは不明であるが、と。

この6日から来年1月31日まで、茅ヶ崎市美術館で「まぼろしの翼 島谷晃展」が開かれている。
島谷晃、私たちの仲間で早稲田美研60−70展の常連であったが、残念ながら5年前に死んだ。その島谷の展覧会開催に力をふるってくれたのは、やはり早稲田の後輩である銅版画家の小川貴子さん。その小川さん、島谷展のポスターや招待券を持って駆けつけてくれた。

島谷晃、鳥の、特にフクロウの絵描きであった。
1月、やはり美研の仲間の評論家・早見堯が講演を行う日に、私たちは団体で行くことになっている。

久しぶりで会う人もいる。

久しぶりの板谷、楽しそうだ。

杉浦の孫がおじいちゃんの作品を見にきた。

おばあちゃんは、山宣の作品も見せている。

もうそろそろ終わりかな。

と、故あり、一部展示替えをすることになった。
中心線を測り直し、前のクギを抜き。

この壁面も。

こうなった。

今回展の出展者は16名。体調が悪く出席できなかった人もいる。オープニング途中で中座した人もいる。海外に行ったヤツもいる。12人の出展者が残った。6時前、闘病中の伊藤が顔を出した。前回会った時より元気そう。嬉しかった。
6時すぎ、それまで残っていた人で記念撮影。板谷と伊藤をまじえ。


野坂昭如が死んだ。
享年85。85までよく生きた、との思いあり。
野坂昭如が脳梗塞で倒れたのは、2003年の5月26日。酔って朝帰りの直後。野坂の公式HPは、今もその直前の様が生きている。5月21日公開の最後の「旅の果て日記」、5月9日のもの。「・・・・・、・・・・・。夜、手紙を書く。結局、徹夜」、との。
終始一貫戦争の惨さを、とマスコミは報じている。日本敗戦時、野坂は14歳。”餓えることはいけない”、が根底にあった。『火垂るの墓』、『戦争童話集』、・・・。それ以前に『エロ事師たち』が、いやその前に『プレイボーイ入門』があった。「女は人類じゃない」、と嘯いた。まだ虚勢を張っていたんだと思う。
多くの人が、野坂を悼む言葉を述べている。
五木寛之、野末陳平、永六輔、田原総一郎、吉永小百合、といった人たちが。こうして見ると、みんな早稲田の同窓生だ。まともに卒業している人は少ないが。
今年もそうであったが、私は毎年8月15日にはこのブログで戦争のこと、敗戦のことを記している。その折々取り上げている書物や映画などは異なるが、毎年手元に用意する書物が二つある。ひとつは『昭和天皇独白録』。あとひとつは野坂が脳梗塞で倒れる前年のNHK人間講座のテキスト・『終戦日記を読む』である。毎年必ず、この二つの書には目を通している。昭和天皇の言葉と野坂昭如の思いを反芻しているんだ。
私の持つ書、支離滅裂、乱雑極まりない。どこへ紛れたか行方知らずの書も多い。
が、石川淳、吉行淳之介、深沢七郎、田中小実昌、などとともに、野坂昭如は系統だてて纏めている。特別扱いなんだ。野坂も。
その中から何冊かを引き出した。
「三百六十日酔如泥 野坂昭如」という野坂の毛筆が挟まっている昭和48年7月の『別冊新評 野坂昭如の世界』には、1995年12月7日号の週刊文春の野坂の連載「もういくつねると」が挟まっていた。連載300回のもの。「連載三百回を機にふり返る、わが雑文遍歴」が。
酒の初めは14歳の時。一升瓶10本・一斗の酒をひと月で飲んだ、という。その後二年半は酒どころではなくなり、17歳の時から、今度ははっきり酔を求めて飲みはじめた、とある。爾来、入院まで約三十五年間、ウイスキーボトル一本を毎日カラにしてきた、と。まあ、それはいい。そういうもので。
その折々の対談が面白い。
昭和46年刊の五木寛之との『対論』、青春、雑誌、酒場、スキャンダル、軍隊、安楽死などを語っている。
昭和45年刊の『三島由紀夫対談集 尚武のこころ』では、その年自裁する三島由紀夫、中山正敏、高橋和己、石原慎太郎、堤清二、村上一郎などと共に、野坂昭如を対談の相手に選んでいる。全共闘、前年の昭和44年の新宿騒乱・10.21のことを語り合う。その時、三島と野坂、新宿の現場の彼我の場にいたんだ。
石原慎太郎の野坂評もある。「含羞の無頼」、と。慎太郎と野坂、その立ち位置は異なるが、「含羞の無頼」と記す慎太郎の目、的を射ている。
youtubeで久しぶりに野坂の歌を聴いた。
「黒の舟唄」、「マリリンモンロー・ノー・リターン」、「バージン・ブルース」、「ソ、ソ、ソクラテスもプラトンも、ニ、ニ、ニーチェもサルトルも、・・・」のサントリーのコマーシャルソングも。
これらの野坂の歌、長期間、病院のベッドの上にいたりしたこともあり、他人さまからは10年近く遅れていた私の青春時代と重なる。
野坂のややつっかえるような口調が蘇える。
早稲田の偉大な先輩が消えていった。
寂しい。