出雲展。


     八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を
須佐之男命(スサノオノミコト)が櫛名田比売(クシナダヒメ)を娶り、新居を造った折り詠んだ歌。次々と沸く雲の様に、カミさん・スイートハートを籠らせている状況を重ねた甘〜い歌である。
しかし、この歌が和歌の始まり。

須佐之男命は、伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)の子供。天照大神の弟である。乱暴者で高天原を追われたが、八岐大蛇を退治して名を上げる。名誉も回復、可愛いカミさんも得たのは、上記の歌の通り。
なお、八岐大蛇を退治した時に、その尾っぽから出てきた剣、これが、皇室に今に伝わる三種の神器のひとつ・草薙の剣である。
ともかく、出雲は、深いんだ。

稗田阿礼が暗誦し、太安万侶が書き記した『古事記』が編纂されたのは712年。今年は、『古事記』編纂1300年となるそうだ。
さらに、来年は、60年ぶりに出雲大社の大遷宮が行なわれる年、との由。それでもっての特別展。

聖地、神話の国・出雲から、聖地の至宝を持って、八百万の神さまが東博へ降臨されたんだ。

古代の出雲大社本殿の復元模型である。チラシを複写した。たしか、1/100の模型。
古代の出雲大社本殿、その高さは16丈(48メートル)あった、という。また、そこへ至る階段の長さは1町(109メートル)だった、という。奈良の大仏殿を凌駕する高さを誇っていたそうだ。
江戸期、文化9年(1812年)刊の『玉勝間』巻之十三が展示されていた。重文だ。
本居宣長という人は、何ごとによらずその知識、半端でない人であったようだが、『玉勝間』の巻之十三の中で、古代の出雲大社本殿の高さについて、こう書いているそうだ。
<古代の出雲大社本殿の高さが16丈あったということは、私には信じられない。多分にまゆつばものである、と思っている。しかし、古事記にそう出ているので、そうとしておく>、と。宣長、不承不承書き残してるんだ。不承不承ではあっても、というところが面白い。

その本殿を支えていた9本の柱のうち、正面中央の柱がこれ。宇豆柱である。
宇豆柱、直径が110〜135センチの杉の大材を、3本束ねて一つの柱としていた。この写真の柱は、年代測定や古記録により、鎌倉時代の宝治2年(1248年)の本殿のものである可能性が高い、と思われているものらしい。

出雲展、後半は、神話の世界を離れる。
実は、出雲地方、大量の青銅器が出土した地として知られる。
荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡から、銅鐸、銅剣、銅矛が夥しく出土している、という。すべて国宝、というこれらの青銅器、いっぱい展示されていた。しかし、出雲、やはり神話がらみのところの方が面白かった。

こういう”八雲立つ”ボヨヨーンとした世界の方が。